記多真玉(続日本紀)

一、「記多真玉」

続日本紀養老五年正月甲戌に、「記多真玉」という不思議な名前が記載されています。  ※甲戌(こうじゅつ・きのえいぬ)

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この名前、「記多真玉」についての読み方を、朝廷(平安朝)は全く記録していません。

また、宮内省・宮内庁、皇室にも、「記多真玉」の読みに関する公式見解は一切ありません。つまり、読み不詳で放置されているわけです。

記事全文画像はこちら養老五年正月甲戌

二、二つの「玉」字→解説が多いので別ページにしました。

の続き

「続日本紀」原文のまま書かれている可能性が高いことの軽い検証です。   →蓬左文庫続日本紀

原文のまま、誤字誤植変字改字が伝えられていることから、「続日本紀」が何を意図していたか考えていきます。

 

「養老五年正月甲戌」記事とその前後記事の、「白」字及び「白」に似た「百」字及び「樂」誤字

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「養老五年正月甲戌」記事では使用されていないが、

「養老五年正月甲戌」記事を含む巻八全体で見ると、絶対にくずしで書かれていない、「白」字を含む文字があります。

巻八での「皇」字の「白」は、一文字たりともくずさておりません。

画像kou001 「皇」以外で「白」を含む字「宿」「泉」「百」。「寮」は省いた。

画像kou002  「皇」以外で「白」を含む字「白」「者」「皆」「習」「諸」。「智」は省いた。

画像kou003   「皇」以外で「白」を含む字「宿」「原」「舶」。誤字変字「養」「薬」。

画像kou004 「皇」以外で「白」を含む字「原」「皆」「著」「宿」「伯」「百」。誤字変字「養」。「智」「替」は省いた。

画像kou005 「皇」以外で「白」を含む字「諸」「百」「宿」「原」。誤字変字「樂」「薬」。「寮」は省いた。

画像kou006 「皇」以外で「白」を含む字「者」「白」「猪」「宿」「諸」「原」「緒」。誤字変字「泊」。

画像kou007 「皇」以外で「白」を含む字「者」「百」「伯」「白」「猪」「諸」。誤字変字「養」。

画像kou008 「皇」以外で「白」を含む字「者」「皆」「宿」「原」「諸」「百」。誤字変字「夏」。「智」「寮」は省いた。

画像kou009 「皇」以外で「白」を含む字「者」「宿」「諸」。誤字変字「養」「既」。

画像kou010 「皇」以外で「白」を含む字「百」「諸」「猪」「帛」「原」。

画像kou011 「皇」以外で「白」を含む字「厚」「百」「者」「皆」「都」「諸」。

画像kou012 「皇」以外で「白」を含む字「原」「宿」「弼」。「智」「寮」は省いた。

「皇」だけ特別扱いされていることは明らかですね。「続日本紀」編纂の方針なのでしょうか?

「皇」の「白」字だけ後世の書写で直された可能性は残ります。

 

「養老五年正月甲戌」記事とその前後記事の、「立」字。誤字無しで、くずしも一定いる。

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「養老五年正月甲戌」記事とその前後記事の、「正」字。誤字無しで、くずしと楷書(行書と楷書)を使い分けていることがはっきり判る。

書写者の意図によるものと考えにくいのではないか?原文を忠実に写している可能性が高い。

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以上のことから、蓬左文庫本「続日本紀」が編纂された17世紀の書写者たちによる「誤植」「誤字」「脱字」「変字」は排除できるのではないか。

「白」「百」「皇」、九州王朝説を支持する方にははっきりとイメージできるものがあるのではないでしょうか。

「白村江」「百済」「皇」、私もなんだか「筑紫君薩夜麻(薩野馬)」が見え隠れするんです。さて次にいきましょう。

 

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左から、「養老五年記多真玉」、「天平十七年□□真玉」、日本古代木簡字典

第三文字の「真」には特別な問題はなさそうですが!最近、面白いことを知りました。(^_^)

「続日本紀」巻八の「樂」誤字、「薬」誤字、

というか、巻八では全て「白」が「自」になっている「樂」「薬」誤字しかないです、正しい「樂」「薬」はありません。たぶん(^_^;)→調べておきます。

気になりませんか?「目」、「女」、「め」。「記多真玉」はもちろん、「記多真玉」周囲に「目」「女」が集まってます。

私は気になったから調べました、織物について。

織物用語に「目」を含む言葉が多数ありました。その中に「目寄り(めより)」という言葉があるようです。

経糸(たていと)や緯糸(よこいと)がずれて、透き間ができることを、「目寄り」というそうです。「間」発見です!

三の一、「唱歌師」の「師」

養老五年正月甲戌記事はこちら→養老五年正月甲戌

クリック大 si001

クリック大 si002

クリック大 si003

養老五年正月甲戌記事の「唱歌□」を解明していきます。とっても、ややこしいです。 (^_^;)

養老五年正月甲戌記事内で、「師」という漢字は一文字しか使用されておりません(画像si001)。

si002「和琴□」、si003「唱歌□」はご覧の通り変字です。これは、「続日本紀」編者による意図的なものです。

例のごとく、si002「和琴□」の左を見てみましょう。

「史」(緑枠)、「夜」(青枠)となっています。「史」(緑枠)は後で説明します。  →wikipedia藤原不比等(ふじわらのふひと)

「夜」(青枠)の音は「ヤ・ヨ」ですから、「和琴□」の第三文字は旁(つくり)を「予」と解して欲しいということなんでしょう。偏の縦棒二本は不明。

 

si003「唱歌□」も同様の処理をしてみましょう。「従」(緑枠)、「下」(青枠)とあります。

狩谷棭斎の読み(推定)から処理します。「下」とあるから下を見ましょう。「正・六・置」と並んでいます。「正」の字に注目です。

si001「師」の左、「従」(青枠)の音は「ジュウ・ショウ」なので、「正」と同じ「ショウ」採用です。

「正・六・置」ですから、「六位」の官を探します。が、養老五年「記多真玉」の官の「正」の字は、くずしで書いてありますから、

くずしの「正」「六位」官を探しましょう。

養老五年「記多真玉」

で、見つかるのが、天平十七年の「□□真玉」となるわけです。

クリック大きい画像

 天平十七年「□□真玉」

しかも、si003は左に「従(しょう)」「下(か)」と並んでいます。si001は「従(しょう)」の右にきちんと書かれた「師」です。

よって、狩谷棭斎説「唱歌師」の完成です。狩谷棭斎の解釈はおそらくここまでだろうと思います。何かわかりましたら加筆します。

 

ここから私の解釈になります。si001si003から片付けます。めっちゃ速いですよ。

si001「従(しょう)」の右に「師」、si003「従(しょう)」の右に旁(つくり)「予(よ)」、これは「婕、(しょうよ)」です。 →wikipediaショウヨ →wikipedia外戚 →wikipedia顔師古

次に、si002「史」(緑枠)とsi003「従(しょう)」(緑枠)の関係を見ましょう。si003「従(しょう)」の下は「六(む)」です。

「史」は藤原不比等、「従」「六」は聖武天皇です。聖武天皇は、藤原不比等の娘婿ですね。   →wikipedia藤原不比等 →wikipedia聖武天皇

養老五年正月甲戌のこの記事が聖武天皇と関係することを記している学者がいます。こちらの画像(p02)の文章を読んで下さい。→Sファイル寺崎保広

 

てなことで、藤原不比等邸宅跡海龍王寺を見学した話はこちら→Sファイルスピンオフ平城京の闇?

「ショウ」「ム」の並びは他にもあります。「ショウ」「ム」並びの近くには「首」「田」などが配されています。

※即位前の聖武天皇の名は、首皇子(おびとのみこ)です。

時間があったら調べて示していきます。興味のある方、調べて解ける方、お願いします。→Sファイル養老五年正月甲戌

 

本当は、私、「唱歌□」を見ていて、顔師古(がんしこ)に気付いたんです。

自分の血で説明する前に、屁理屈で説明します。「歌」の字、「可」がひとつ、「王」のようになっています。

「欠(あくび)」、「王」、「可」、王の欠伸(あくび)?貴人の顔は見れるのかと考えたら、身分不相応の者は貴人の顔を見れません。

ここから、顔師古、「女」偏に「予」を調べていくと、「婕、」と顔師古が繋がりました。

「田上王」のほうでやるかどうかわかりませんが、「うた」の上に「王」、「田上」ですよ(笑)。「続日本紀」、こんなんばっかりですよ。

私の血の方ではですね・・・

「歌(うた)」ですよね、阿久根市に「太田(大田)」という地名があるのですが、現地薩摩の発音は「うた」なんです。「太田(大田)」は「うた」なんです。

私の父は朝鮮半島で終戦を迎えましたが、戦後処理要員としてなかなか復員させてもらえませんでした。

海軍予科練出身者は米軍に恐れられていて、終戦降服後も家族への通信を禁じられたそうです。

昭和二十年秋にやっと父は復員できたそうです。鹿児島県に帰ると、阿久根駅の日通倉庫に知人が居てびっくりしたそうです。知人のほうが。

父は行方不明者扱いで、おそらく南方で戦死したんじゃないかと思われていたそうです。父の両親は葬式どうするか、様子見だったそうです。

父は阿久根駅日通倉庫に泊めてもらい、翌朝、故郷鶴川内に向けて歩きました。

父が歩いて行くと、駅に向かう行商の女が歩いてきました。父の母でした。びっくりしたそうです、父の母が。もう死んだものと諦めていたそうです。

父とその母が再会した場所が阿久根市太田(大田)です。太田(大田)の東は園田で、枚聞神社があります。

 

で、父の母、私の祖母の妹がカオという名前なんです。

「歌」→「うた」→「太田(大田)」→父方祖母→下・妹カオ→はい、顔師古。

「唱歌□」を見て、カオ・顔師古とすぐに気付いていたのですが、なんで顔師古なのかが私は長くわかりませんでした。

 

三の二、「唱歌師」の「師」、「木」偏の可能性

右に「予」の付く漢字を挙げます。「紓」「l」「、」・「抒」「杼」「忬」「舒」「魣」。フォントが出ない「ジョ」→wikipediaじょ(単位)

「l」「、」「紓」は中字らしくて漢和辞典にはありません。「l」と「、」は婕、で片付いています。  →wikipediaショウヨ

「抒」「杼」「忬」「舒」「魣」、だいたい、「ショ」か「ジョ」です。「ショジョだと病気だと思われちゃうよ」スキャンダルの、都知事候補がいましたね。

この中で、なんとか屁理屈をこねれそうなのが「杼」です。

 

「杼」、ショ・ジョ、和訓で「ひ」です。「杼(ひ)」は道具です。   →wikipediaシャトル

「唱歌□」の第三文字に「杼」を持ってくる屁理屈を述べます。狩谷棭斎もおそらくこう考えたのだろうというのを含んでいます。

si002si003「予」の左の「縦棒二本」、「リ」を左右反転させたように見えますね。   →wikipediaりっとう

狩谷棭斎も部首「りっとう」の逆と考えたようです。で、「予」を逆、下から読み上げて「アマ」と考えたみたいです。   

「りっとう」で「證」の「トウ」音もあるし、「アマ」で女であることも示されている、と。             ははは・・・ほんと、迷惑な奴です、狩谷棭斎  (^_^;)

 

「りっとう」は刀を表す部首です。「りっとう(刀)」の逆は「木」なんですよ。もっと言えば、「木」か「竹」です。 →wikipedia木簡 →wikipedia竹簡

wikipedia竹簡に孔子の話や、「刀筆の吏」という言葉が出ていてわかりやすいです。幕末維新の中村半次郎や薩摩隼人たちの話をしたくなりますねぇ。

先を急ぎます。

「りっとう」の逆を充てて欲しいとの、「続日本紀」を編纂した平安官人たちの希望に応えて、「刀」の反対の「木」を充当して、「杼(ひ)」完成です。

「木」「予」、「きよ」ですね。si002に出ててますね、「氣」「夜」というかたちで。さらに、養老五年正月甲戌記事内に「清(きよ)」もあるんです。

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清麻呂おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!  \(^o^)/    平安官人・・・お、おまえら・・・・・・ですね。

wikipedia和気清麻呂(わけのきよまろ)

 クリックで大きい画像  

おまけ画像「糸糸」

「唱歌」の「唱」も、よーく見ると変ですね。「日」が。「唱歌師」、正しい字が一つも無いというカオス・・・ (-_-;)y-~

黄色枠で囲んだ字は、「師(し)」と「杼(ひ)」を導くかなと思えるものです。他にもありそうなんですが、文章にするのが大変なんで省略。

「陰陽」なんて、「陰陽師」と書けばいいのに「師」を落とした編集をしていますね。「師」を抜いたり加えたりして、行と段を整えた痕跡かもしれません。

 

刑事さんの隠語「ひし」が気になる方はこちら→wikipedia山口組 →Sファイル今泉忠義 →Sファイルスピンオフ(飛鳥会)

 

「師(し)」「杼(ひ)」の順に書いた理由はこちら→wikipedia紫微垣(しびえん)

Sファイルスピンオフ京都御所

 

三の二、「開閉、あいてる・あいてない」

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「開閉」については、あまりやりたくなかったのですが、Sファイルは様々な可能性を追究しておきたいのでやります。

先ず「茨田連刀自女」の「刀自」に注目ですね。「刀自」を右に寄せて書いてあります。

「とじ」・「女」・・・いやらしい妄想をしてしまいますね。まあ間違いではないですよ。それはそれで、後でやります。

囲みが開いてる字を見ますと、赤枠のようになります。だるいっすね・・・頑張って書きます。

「記多真玉」のうち「記多真」は、置き換えた字ですよということを、平安官人が一生懸命に黙示しているように見えますね・・・。

緑枠の「忌」と「記」は明らかな誤字です。これは漢字文化圏に生まれ育って漢字を使っている者でないと分かりにくいですね。

外国人に対して、普遍的説明ができるようにすることが学問の一部だとすると、もうね、この説明は大変です・・・心が折れそうじゃ(>_<)

 

「己」「已」「巳」の違いがあるんですよね。漢字のお勉強ぉぉぉ。

巳(み)は上に、己(おのれ・つちのと)下につく、半ば開くれば、已(すで)に、已(や)む、已(のみ)

 

「言巳」は誤字です、正しくは「言己」(記)ですね。「巳(み)は上に」なので「言巳」の上を見ますと「下」とあります。うわあああああ!わからん!(>_<)

大丈夫です。正しくは「言己」(記)なので、「己(おのれ・つちのと)下につく」です!!

「記多」でワンセットということです。それを補強するために「歌」の字が有り得ない加工を施されています。

「歌」は「王」と「可」と「欠」となっています。おそらく、漢字一字(「欠」)を、二文字(「王」「可」)に分解しましたよ、という苦しい屁理屈です。

お尻は二つに割れてるが、二つでひとつのお尻だよ。恐るべし、平安官人ども。

で、隣の「広田(廣田)」さんを見て下さい。上を取っ払うと「黄田」です。「キタ」ですね、「北」。

 

疲れました・・・「ほと(女陰)」はこっちを読んで下さい。→wikipediaほと

「ほと」で有名なのは「箸墓」なんで色々調べていたら、高松市にある田村神社を知りました。  →wikipedia田村神社(たむらじんじゃ)

「倭迹迹日百襲姫命」は桃太郎伝説と関係あるんやろか?と思いあちこち読んで、讃岐国一宮田村神社に辿りついてました。

井戸に筏(いかだ)を浮かべて、そこに神社を置いていたなんて、新鮮!かなり変わった神社ですね。 (^_^)

 

忌は「忌辰」です。天皇か皇后の命日を指すことばです。どこかで書けたら書きます。

 

三の三、北天

あまり気が進まないのですが、とんでもな話に進みましょう。

とんでもなこじつけなんですが、なんだか話の筋は通るという不思議です・・・  (^_^;)

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左の下がるはいいんですが、問題は右ですね。「唱」の音「ショウ」は「上がる」から来てるらしいんですよ。

「唱」は、今日(こんにち)では皆で一斉に声を出して歌う意味ですが、もともとは自然発生的に大勢で歌うことだったようなんです。

誰かが歌い出して、周りも歌い出す経験は誰にでもあることだと思います。そういう意味での、声が「上がる」、これが「唱」のようです。

左下がる、右上がるなので、左回り・反時計回り、これは北天です!→wikipedia極星日周運動

 

「七」は簡単ですね。北天の北斗ですね。  →wikipedia北斗七星

「女」とか「杼(ひ)」は織女だとおもうのですが、西暦700年代(8世紀)の人がどういう星宿図を使っていたのかがわからないので断定できないです。

wikipedia二十八宿(にじゅうはっしゅく)

織女が古来より神聖視されているのは、北極星がそちらに近かったからだと思います。

回転軸が振れる歳差運動によって、北極星に相当する星は変遷しているのです。  →wikipedia歳差(さいさ)運動

wikipedia北極星に歳差による北極星の変遷という図があります。これはこれで便利な図なんですが、イメージしにくいですね。

こちらにある、作図がわかりやすいのではないかと思います。→キトラ天文図は後世の捏造か?の図3がわかりやすいです。

 

 

話が天体まで来ましたので、天体に関するもうひとつの可能性を押さえておきます。

「真」「自」「置」に共通するのは「目」です。「目」が三つ・・・なんでしょうね?

二十八宿では、オリオン座のことを「参宿(しんしゅく)」と言います。  →wikipediaオリオン座  →wikipedia参宿(しんしゅく)

よくできていますが苦しいですね・・・これで「間」を引っ張ってこれる人なんか居るんでしょうか・・・   (^_^;)

 

ここまでぶっ飛び説にきましたので、これも押さえておきましょう。田上王(正倉院宝物)と重複します。

皇帝、帝、貴人などは死んだら天に帰るものとされているわけですが、具体的に何処に帰るかと言うと北天なわけなんですね。

天から降りてきて天に帰るということなので、「治天下大王」と日本列島では称していたのです。   →wikipedia治天下大王

狩谷棭斎の説によって、養老五年「記多真玉」、天平十七年「□□真玉」、天平宝字五年「荅他伊奈麻呂」、これらが同じ名字という意味については記しません。

 

誰が作った造語か知りませんが、「生前退位」などとは生きている人に対して極めて失礼な言い方だと私は思います。

古来よりの日本列島の言葉では「譲位」だと思います。

「きたのま」の意味については読者の方にお任せ致します。「生前退位」という言葉を聞いて「きたのま」の意味について書く気が失せました。

 

四、天平十七年の□□真玉

 あまり、やりたくないです、これ。面倒な割に得るものが何もないんですよ。

様々な人の働きかけにより、書くことにしました。「きたのま」という読みが判っている者にはつまらん話ですよ。

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問題の□□真玉です。蓬左文庫本続日本紀での筆跡です。→Sファイル蓬左文庫本

第一文字は最後に解説します。

第二文字から行きます。第二文字を「陁」と解釈したのは狩谷棭斎です。→Sファイル狩谷棭斎

その狩谷棭斎の流れを汲んで(くんで)、「陀」としたのは黒板勝美ですが、これは「陁」と「陀」が同じ字とされているからです。

Sファイル国史大系

クリック大

「陁」と「陀」が同じ字なのはいいとしても、天平十七年の第二文字の旁(つくり)はどう見ても「色」に見えますね。

コザト偏+「色」という漢字は存在しないんです。

蓬左文庫本続日本紀の筆跡には、「絁(あしぎぬ)」の文字が「絶」になっている、「絶」に見えるという問題があります。

養老五年正月記事から「色」と「色」に見える字を拾ってみましょう。

day001 day002 day003 day004 day005 day006

それぞれから切り抜いた画像です。

「絁」

「絁」

「阿弥陁(阿弥陀)」

「絁」

「絁」

「絁」

「色」

な、なんてこった!全部「色」に見えます! (^_^;) 

助けてえええー!日本古代木簡字典!ということで日本古代木簡字典を頼りましょう。→Sファイル日本古代木簡字典

「絁」クリック大

「陀(陁)」クリック大

先ず時代を整理しておきますと、古代木簡字典は平城京遺跡出土木簡ですから、奈良時代です。

続日本紀(祖本)が書かれたのは平安時代で、

蓬左文庫本続日本紀は鎌倉時代写本の金沢文庫を桃山時代から江戸初期に写本したものということになります。

注目すべきは3-03028「絶」と1-00482「絁」の筆跡ですね。明らかに違います。

全体的に形は似ても、明確な違いが出ているのが旁(つくり)の「ク」と「ノー」の筆ですね。

横棒を短くする書き方と、横棒を長く取る書き方の違いが見て取れます。

 

蓬左文庫本続日本紀に戻りますと、

文意から「絁(あしぎぬ)」と書くところを、文意が壊れる「絶(ぜつ)」と書き間違えることは絶対に有り得ません。

そして、奈良時代の木簡からわかる通り、字が似ているから写し間違えたということも有り得無さそうです。

これはどいうことか?

おそらく、平安時代の祖本、一番最初に書かれたものから、「絁」は「絶」と書かれていたのだと思います。

平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、各時代の書写者が律義者だということがビシバシ伝わってきますね。 (^_^) スゲー

要するに、続日本紀を書いた平安官人が、「絁」という漢字が「絶」に見えるように書いたということです。

 

では、「色」という漢字を引いてみましょう。

クリック大

角川新字源で「色」を引くと、「色衰愛弛」という韓非子[説難]の言葉がありました。

ああ、わかったと私は思うから、ここから何も調べたりしないのですが、ホームページ公開なので一応調べます。

[説難]、これだけでわかった、もうええわとなるのは、「せつなん」→「摂南」→「摂津国南部」→「住之江郡(住吉郡)」となるからです。

wikipedia住吉郡 →wikipedia摂津国 →スピンオフ大和川と浅香

もうね・・・平安官人、「北ノ間」という名前が摂南住吉郡にあるのをわかってて、めちゃくちゃ表記にしたんやろ!と言いたくなります。

 

さて、平安官人が黙示しようとした韓非子[説難]の「色衰愛弛」を調べましょう。

「逆鱗」の語源だそうです。→wikipedia逆鱗(げきりん)

「韓非子」についてはこちら。→wikipedia韓非子(かんぴし)、ここを見てもらうと「説難」の読み方がわかります、「説難(ぜいなん)」だそうです。

「色衰愛弛」は読み方、わかりません、「しきすいえし」でしょうか?

詳しくお話を書いてくれている方がいます。助かります。→サイトThe Adventures of Dr.Hara

→サイトやけい韓非子19

衛の霊公はこちら。→wikipedia霊公(れいこう)

島根女子大生死体遺棄事件の犯人が特定されて、本当によかったと思います。被害者のご冥福を祈ります。

スピンオフ平安京の闇「宗像神社」

 

第一文字の不可解な「、」、これは、もしかすると逆鱗なんでしょうか?

 よくわかりません (^_^;)

 

次に、「養徳」問題に参りましょう。「□□真玉」に続いて、続日本紀は「養徳畫師」と記しています。 ※畫、画の旧字

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「養徳」と書いて、読みは・・・なんと、「やまと」なんですよ・・・   (^_^;) 続日本紀カオスワールドですねぇ・・・

正しくは、「大養徳」と書いて「やまと」と読ませます。これは一応理由があります。

お助けサイト→「日本」という国号の世界への広がり

ここにある通り、続日本紀天平九年十二月二十七日に「大倭国」表記を「大養徳国」に改めたようです。

ここはSファイルらしく、蓬左文庫本続日本紀天平九年十二月二十七日の画像をぺたっと貼るべきなんですが、

この記事のコピーは持っていません。とりあえず、お話を進めましょう。

「大倭国」を「やまとのくに」と読むから、「大養徳国」は「やまとのくに」と読む。このような仕組みです。

続日本紀天平九年十二月二十七日記事の画像01 画像02 宇治谷孟「続日本紀」より

Sファイル宇治谷孟(うじたにつとむ)

蓬左文庫本続日本紀天平九年十二月二十七日を立命館大学衣笠図書館でコピーしてきました。

Hdaiyoutoku001  Hdaiyoutoku002

 

「大養徳国」はわかったが、「養徳畫師」には「大」がないですね・・・・・・。

「大」の前に、「養徳」の「養」を点検しましょう。

Sファイル記多真玉(続日本紀)一の続きが役立つ時が来ました!

ここで、養老五年記多真玉を含む続日本紀巻八の「白」字を点検しましたが、「養」の誤字変字を拾ってあります。

全てクリック大

kou003 kou004-01 kou004-02

kou007 kou009

ヒャッハー!正しい「養」がひとつもないぜー! \(^o^)/ 続日本紀カオス全開。

 

「記多真玉」を含む養老五年正月記事前後には、変な「真」もあります。これも見てみましょう。

画像三一八 画像三一九 画像三二〇 画像三二一 画像三二二 各クリック大

318−01  318−02

319−01  321−01

 ヒャッハー!もういいか・・・、「記多真玉」以外で「真」はみっつありますが、みっつとも「ハ」を省略してる誤字ですね。

「韓非子(説難)」、「衛の霊公」のお話に、脚を斬る刑罰とかありましたね。  なんか・・・ (^_^;) 続日本紀、怖いですね・・・

「ハ」無し字体の「真」の解説をします。

結論を先に言いますと、「記多真玉」は聖武天皇の臣下ではない、つまり、異なる時代の人であるということです。

「真」の字義を調べましょう。いつもの角川新字源。

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鼎(かなえ)に匙(さじ)でものを詰めるという意味です。

私、この意味知ってました。鼎が出てくるのでやりたくなかったんです、鼎にはいっぱい意味があるので・・・ (^_^;)

はい、角川新字源の「鼎」。

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思った通りいっぱいありますねぇ・・・鼎や饕餮の専門家はこの人→Sファイル林巳奈夫 →wikipedia林巳奈夫 →wikipedia饕餮(とうてつ)

いっぱいありますが、注目すべきはこれですね、「鼎折足(かなえ、あしをおる)」。

「大臣が実力がなく、天下の政治という重い任務に耐えられないで失敗する」。

養老五年正月記事前後、「記多真玉」以外の「真」は見事に足を折られてましたね。続日本紀、鼎の足、折りまくり。

なんか怖いですねぇ・・・ (^_^;) はい、遠里小野→スピンオフ大和川と浅香

なんでなのか?この理由は、「記多真玉」より後の記事を見ればわかります。見ましょう。

聖武天皇詔001 聖武天皇詔002 ※詔(みことのり) 宇治谷孟「続日本紀」より →Sファイル宇治谷孟

「続日本紀」は平安時代、藤原政権下で書かれた国史で、編者にも藤原継縄が入っています。→wikipedia続日本紀 →wikipedia藤原継縄(つぐただ)

詔の中で聖武天皇は、養老四年の藤原不比等薨去(こうきょ)を悲しんでおります。→wikipedia藤原不比等(ふじわらのふひと)

養老四年に不比等が亡くなった、鼎の足が折れたも同然、聖武天皇の詔と続くわけです。

では何故、「記多真玉」の「真」の字は足を折ってないのでしょうか?これが天平十七年「□□真玉」にも繋がっていくのですが、

私は端的に、「記多真玉」が養老年間の人ではないと思うのです。

聖武天皇治政下の人ではないと考えるのですが、「真」一字でそこまで言うには理由が弱いですね。

 

天平十七年「□□真玉」を見ましょう。

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足の折れてない「真」の字が、「□□真玉」を含めて二つもあります。「真玉」の隣は「諸會(もろえ)」です・・・

「會」は変な縦棒一本を持つ字体です。天平年間で、「もろえ」と言えば橘諸兄ですね。→wikipedia橘諸兄(たちばなのもろえ)

なんか、この辺、調べたり考えていたら、わくわくしましたよ。

おおおおおお!鼎の足を折るという荒ワザを駆使して、

藤原原理主義国書「続日本紀」が、時の権勢者である左大臣橘諸兄を批判するのか! ワクワク o(^_^)o ワクワク

橘諸兄、初名は葛城王、正一位、井手(いで)の左大臣。は? (^_^;) なんもわかりません・・・

まあ、歴史はこんなもんです・・・ちまちま調べましょう。

橘諸兄が「井手の左大臣」と呼ばれるのは、本拠地が京都府綴喜郡井出町だからです。→wikipedia綴喜郡(つづきぐん)

京都府なので山城国ですね・・・「養徳」!

「大養徳(やまと)」ではない!やはり、藤原原理主義国書は橘諸兄を批判するのか! ワクワク o(^_^)o ワクワク

確かに「井手」は大和国ではなく、山城国綴喜郡です。

橘諸兄のことは様々な方が書いてます。→紀行歴史遊学 →奈良に住んでみました →橘諸兄の所領があった井手の山吹の里 →井手町HP

橘諸兄批判はいつ、始まるんじゃ・・・ ち、地図を・・・ (^_^;)

一応、橘諸兄の墓を地図で確認しましたら、井手町南開となっていました。南開、読み方わかりません。

その隣、西を見たら「北開」とありました!!と、解けた・・・ \(^o^)/

諸兄の墓の隣の「北開」という地名を、藤原原理主義続日本紀は黙示していたんですね。

「□□真玉」、最初から「北之真玉」と書け、バカ!

 

さあ、「記多真玉」をタイムスリップさせましょう!

続日本紀が記す「記多真玉」は、明確に特定の時代を黙示しています。

いきなり「記多真玉」から行けるのですが、続日本紀がいかに緻密な作りか知ってもらうために前座から。

続日本紀では、越智さんもエライめに遭ってます。

クリック大 クリック大

左が養老五年正月甲戌記事直前の「越智」さんで、右が養老五年正月甲戌記事中の「越智」さんです。 ※甲戌(こうじゅつ)

最初は「越智真廣」で、「真」の「鼎」の足折り攻撃されてます。 ※「廣」は「広」の旧字

次の「越智麻呂真廣」、「越」の「走」が崩し字、「呂」は「ノ」無し、「真」は「鼎」足折り攻撃。

厳密には、「越智真廣」「越智麻呂真廣」ともに、「廣」は「黄」となっており、どっちゃでもいいのですが、厳密にはこれは誤字です。

誤字だとわかっていながら、平安官人が「黄」を強調したという可能性は、あります。

越智氏は色々とややこしいんですよねぇ・・・ (^_^;) 少しずつ片付けましょう。

wikipedia越智氏(おちし) →wikipedia越智氏(大和国) →wikipedia予章記(よしょうき)

「越智真廣」「越智麻呂真廣」の変態表記を見て、「隋」とわかる人はかなりの漢字通です。 (^_^)

「真」と「廣」から片付けましょう。この二文字で、「饕餮」・大陸王朝皇帝と読める方は、かなりの「鼎」マニア、「饕餮」マニアです。

wikipedia饕餮(とうてつ) →wikipedia鼎(かなえ) →wikipedia蚩尤(しゆう) →wikipedia黄帝(こうてい)

Sファイル林巳奈夫 →wikipedia林巳奈夫

漢字「真」は前出を参考にして下さい。

「広」クリック大  「黄」クリック大

「廣」の中身「黄」は、「光」という意味だそうです。その「黄」はもともとは「火矢」のことだそうで、びっくりですね。

様々な可能性を示すことがSファイルの目的ですので、「火矢」を勉強しておきましょう。

wikipedia火矢(ひや)、これによると、火矢で戦果を上げた最古の記録が「日本書紀」にあるそうです。

欽明天皇十五年、新羅の城を、筑紫物部莫奇委沙奇が夕方には落城させたそうです。

私、これの資料を持っていません。覚えていたら調べておきます。

「隋」もここでやっておきます。

「隋」クリック大  「隨」クリック大

「隋」と「隨」は別の漢字のようです。 (^_^;) ずいずいカオス・・・

ちまちま片付けて行きましょう。

「隋」は肉部(月)の漢字で、「隨」は「しんにょう」部の漢字だそうです。

角川新字源(昭和60年版)の「隋」解説に、帝位の不安定を嫌い、「しんにょう」を除けて(のけて)、「隨」から「隋」にしたとありますが、

wikipediaの解説では後世の創作という説があるそうです。 →wikipedia隋(ずい)

「しんにょう」に似た「越」の「走」を、ふにゃ略字にしたのは、平安官人が「隨」と「隋」の違いを知っていたからかもしれませんね。確証はない。

最後に「呂」。

「呂」クリック大

書いてある通りです。背骨の連なりを表す漢字だそうです。続日本紀には「呂」の「ノ」が欠けた変字の「呂」が多いです。

「越智麻呂真廣」さんの「呂」も「ノ」が欠けた変字体です。

まあ、これはクイズみたいなもので、背が繋がってないということを平安官人が強調するんですから、漢字「北」ですね。

人と人が背中合わせなのが、漢字「北」だそうですので。

 

準備が整いましたので、養老五年「記多真玉」を見ていきましょう。

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「記多真玉」さん、向かって右隣の「廣田」さんから、黄色い光を浴びています。

「多」という漢字は、「夕」を重ねた漢字で、「夕」はもともと「月」という意味です。よって、黄色い光とは月明かりのことですね。

いつもの角川新字源。

「夕」

「多」

ここから話が二つに分離します。A・「多」で「二ヶ月」と読む、B・「隋」と読む。

簡単な方である、Aから片付けましょう。天平十七年「□□真玉」。

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「多」を二ヶ月と読む。「會」は「甑(こしき)」にフタをした字です。上部の「へ」型がフタで、その下は容器部分を表しています。

よって、二ヶ月は、「ふたつき」の「こしき」と読む。変な縦棒で容器部分を消していますので、「フタ」だけです。

とんち小坊主一休さんの世界です、強引に屁理屈を駆使して「北」にしてみせます。 o(^_^;)

「□□真玉」さんと「葛井連諸會」さんのお二人です。「フタり」。

「会」は二人以上でないと意味をなさない漢字です。「会う」のも二人以上、「会話」も二人以上です。

都合の良いことに、「□□真玉」さんと「葛井連諸會」さんのお二方ともに、名前に「言」を持っていますね。

「大養徳」と書くところを、「養徳」と書いて気を引いています、その下、「畫(画)」の「田」が「回」となっている誤字ですね。

「畫(画)」で「回」の誤字、「エ・カイ」。「會」も「エ・カイ」です。採用。

次に、赤枠を掛け忘れましたが、「麻」に注目です。「木」が「フタつ」ですね。「記多」に通じます、採用。

わざとらしく、「比」を発見! \(^o^)/

「比」は人が二人並んでいるという意味です。「□□真玉」から見て「丹比間人」さんは、並んでいません。

二人が並んでいない感じの漢字、はい、「北」完成。

「畫(画)」の「田」が「回」となっている誤字から、左側の人が反対に向くということになります。

 

B・「隋」へ行く前に、ちょっと汚い話を片付けておきます。

黄色と「絁」でイメージされるのは、やはり、褌(ふんどし)、下帯でしょうね・・・ →スピンオフ兵児帯(へこおび)

「絁」が白いさらしであるという前提ですが、問題無いんじゃないでしょうか。

天皇から下賜された「絁」が白色かどうかは、学問テーマになるんじゃないでしょうか?

と思う一方で、白色で当然過ぎて、誰も調べたことないのかな?とも思います。

結構調べてるんですが、奈良時代の天皇下賜「絁」は白色だったという確証ある文章が見つからないです。

→wikipediaあしぎぬ ここを読むと、「丹後国赤あしぎぬ」があるそうなんです。

で、→裂地としてみた正倉院の調絁(ちょうのあしぎぬ)尾形充彦(PDF)のP22ページ目の便利な表を見ると、

色んな色の絁があるんですよね・・・ (^_^;) 絁、白褌説崩壊の予感がします。

いや、天皇下賜絁は絶対に白だと言い張れなくはないですが・・・、そのためには天皇下賜とされる絁の現物が必要でしょうね。

しかし、まあ、天皇下賜絁は白だと、私は日本人的感性で断言します。

その理由は、白い絁が最も多いことと、神事でお供えされる布類はほとんど白色だからです。

色が着いてるなら、我が神社の絁は何色をもって行うというような話があるはずなんです。

天皇下賜絁が、大量にあったであろう白以外の色なら、やっぱり、何色絁と特筆されたように思うのです。

当たり前のように、白い絁が下賜されるから、特筆されなかったんだ思います。

 

 

工事中

養老五年の「廣」の「黄」を「火矢」と見て、その「火矢」が天平十七年の「諸會」さんの「會」に刺さったと見るなら、

こちら→スピンオフ光陰矢の如し

 

工事中

 

ということで、天平十七年の「□□真玉」記事と養老五年正月「記多真玉」記事の両記事が、よく対応していることが見れますね。

さて、「養徳畫師」。「大養徳」ではないのに、「やまと」って読んだしょ?と続日本紀が問いかけてきます。 \(^o^)/ エスパー!

「大」を含むように書かれた「真」も、一字抜けているので、一音補って読めと続日本紀が言います。 \(^o^)/ エスパー!

「之」を入れて、「記多真玉」は「きたのまたま」と読むんだよ、と。ここまで強引に言っておきます。 (^_^;)

「北ノ間」という名があること知っていれば、何も悩むことはないんですけどね・・・

 

 

 

工事中

佐賀県に「託田」という地名があります。旧神埼郡千代田町託田です。読みはおそらく「たくだ」だと思うのですが、現地発音はわかりません。

※→Sファイル「天平十七年□□真玉」と「陥」

 

 

五、「真玉」について

こちらもどうぞ。 「記多真玉」二、二つの「玉」字

養老五年の「真玉」  天平十七年の「真玉」

先に排除しているものを示しておきます。

「続日本紀」には、「真玉」という言葉、というか「真玉」という名前の人物が記載されていたように思います。

一度調べたのですが、コピーを取っていませんのでここに示せません。

「真玉」だけを拾って考えてみたのですが、私の力不足かして特筆するような意味は見出せませんでした。

それともうひとつ、「真玉」という地名が大分県高田市にあります。  →wikipedia真玉町(またまちょう)

これも一生懸命調べて考えたのですが、どうも、関係無さそうです・・・私の力不足のためか。

 

「続日本紀」は「記多真玉」「□□真玉」というふうに、「北ノ間(北間・北之間)」姓を改ざんしている可能性が極めて高いのですが、

そう考えますと「玉」を改ざんしない理由が気になるんですね。「玉」を「多真」とか「魚久(ぎょく)」とかにしてもおかしくないのに、それはしてない。

改ざんされた形態が「玉」なのではないか?という真逆のことが、私には思えてなりません。

「記多真王(北之間王)」を、「続日本紀」は、「真玉」という言葉を入れたいがために、「王」を「玉」に置き換えたのではないかということです。

 

玉璧(ぎょくへき)については、こちらに記していきます。→Sファイル林巳奈夫・玉器

wikipedia和氏の璧(かしのへき)  →wikipedia璧(へき)

 

 

Sファイル「記多真玉」の読みに挑んだ学者たち

 

【おまけ】

難読希少名字大事典にある、「記多真玉」に似た名字。

クリック、大きい画像

HP作成者の名字「北ノ間」は掲載されていません!(^_^;)

HP作成者は「北ノ間」以外の「きたのま」さんに会ったことがありません。「北之間」も「北之馬(きたのうま)」も、この事典で初めて見ました。

「北ノ馬(きたのま)」という名字があると、幼い頃に母から聞いたことはあります。

絶対不可能に挑む工事中

 

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