「記多真玉」二、二つの「玉」字
右が養老五年「記多真玉」、左が天平十七年「□□真玉」です.。
以下、「記多真玉」と「□□真玉」が、同じ名前かもしれないというお話で、狩谷棭斎を肯定するものではありません。
見比べますと、「玉」字の点「、」の位置が明らかに違いますね。なぜ位置が違うのか、長らくわかりませんでした。
Sファイルを作り始めた平成20年以来、他に調べたいことがたくさんありましたので、後回しになっていたのですが、最近考えがまとまってきました。
点「、」が上にある「玉」字が、天平十七年「□□真玉」だけに使われているなら、「間(あいだ・かん)」を示唆するのでは?
と考えましたが、甘かったです。「続日本紀」、私に楽をさせてくれません。
蓬左文庫本(ほうさぶんこぼん)続日本紀が、原文通りに書写されているという前提のお話です(おそらく原文通りの書写と私は考えています)。
影印本蓬左文庫本続日本紀(八木書店・全五巻)の第4巻と第5巻にある「玉」字は全て調べました。
点「、」が上にある「玉」字、いっぱいありました!天平十七年「□□真玉」だけに限る特殊性はないようです。
影印本蓬左文庫本続日本紀(八木書店・全五巻)の第1巻、第2巻、第3巻の「玉」字は調べたくなかったので、3ヵ月ぐらい調査を放棄しました。
1冊調べるのに、8時間、私の週一図書館通いだと二週、4巻と5巻を調べるだけで、1ヵ月かかってます。
1、2、3、でまた1ヵ月以上食われるのかと思うと、銭にもならんのにたまらん、たまらん、何か楽になる方法はないのだろうかと悩みました。
そんなお悩みを解決してくれたのが、これ!八木書店の「日本古代木簡字典(にほんこだいもっかんじてん)」。
クリック、大きい画像
これわああああああああああ!「乙(おつ)」ですな!八木書店さん、ありがとう。
「丁(てい)」字の筆運びから「乙(おつ)」字を書くと、跳ね上がった先に点「、」を打つため、点「、」の位置が上になる「玉」字ができあがるんですね。
点「、」の位置が上になる「玉」が存在するのは分かりましたが、「□□真玉」の「玉」字筆運びは「乙」型になってないですね。
影印本蓬左文庫本続日本紀(八木書店・全五巻)の第4巻と第5巻にある「玉」字は全て調べましたが、「乙」型はありませんでした。
「乙」型はないのに、点「、」が上にある「玉」、再び悩む。乙ではない、乙ではない、乙ではないんですよね。
「乙(おつ)」ではない、「乙」の五行は「木」です。「木」ではない!解けました!
「丁子(ちょうじ)」です。「丁(てい)」に「乙(おつ)」ではないから、「甲」でも「男」でもなく、「子」ですね。
「丁子」は「ちょうじ」と読むと、「丁香(ちょうこう)」のことで、花の蕾(つぼみ)の香料で、「ていし」と読むと「おたまじゃくし」のことだそうです。
→「丁子(ちょうじ)」についてはwikipediaクローブに詳しくあります。
「玉」の隣の字、「會」、何故か縦にひと筆入ってますね。「會」の「日」は「乙」型くづしですね。
この辺りから、「続日本紀」は、乙型で点「、」が上にある「玉」字をわかったうえで、非乙型で点「、」が上にある「玉」字を書いたと言えるかもしれません。
「天平十七年夏四月壬子」記事で、名前に「ま」が入ってない人が、「□□真玉」の左隣の「葛井連諸會」です。
「□□真玉」「楯戸弁麻呂」「葛井連諸會」「茨田宿祢枚麻呂」「丹比間人宿祢和珥麻呂」「國君麻呂」となってます。
と、ここまでやっておきながら、もっと楽な解釈あるやん!と気付いたのですが、一応やってしまいます。
「□□真玉」「楯戸弁麻呂」「葛井連諸會」「茨田宿祢枚麻呂」「丹比間人宿祢和珥麻呂」「國君麻呂」
先ほどの「乙(おつ)」ではない、五行「木」ではないを適用して、「ま」のうちから「木」を消します。
「□□真玉」「楯戸弁麻呂」「葛井連諸會」「茨田宿祢枚麻呂」「丹比間人宿祢和珥麻呂」「國君麻呂」
縦一筆多い不思議な「會(かい)」に注目です。
「□□真玉」「楯戸弁麻呂」「葛井連諸會」「茨田宿祢枚麻呂」「丹比間人宿祢和珥麻呂」「國君麻呂」
楯と縦「會」を青字にしました。これでわかったかたは、かなりの古代史マニアです。東西を「日の縦」、南北を「日の横」と言うんですよね。
「続日本紀」本文は縦書きなので、上を東とすると、下が西、右が南、左が北。
左を見て「シロク24」で、ここ天平十七年にキタんだから、左は北だよ!と「続日本紀」編者に笑われてるような気分になりますね。(^_^;)
むかつくんで、上を西、下を東、右を北、左を南にしてみましょう。まあ、なんてことでしょう!「養老五年記多真玉」の方向(右)が北になりますね!
「続日本紀」、おそるべし。(^_^;)
原田大六ですか、平原遺跡か何か忘れましたが、伊都国王墓の被葬者は東からの朝日が股間に差さるように埋葬されている、
そのようなことが著書にあったように思います。→著書名忘れました、時間があればまた調べておきます。
※wikipedia原田大六(はらだだいろく)※wikipedia平原遺跡(ひらばるいせき)
では簡単な解釈を見ていきましょう。「會」の「日」を「|」で差してますから、日付を見てみましょう。
「壬子(じんし・みずのえね)」とあります。「□□真玉」が記載されている記事の年月日の天平十七年夏四月壬子は、天平十七年(ユリウス暦745年)四月二十五日です。
ちなみに、天平十七年の干支(かんし)は「乙酉(いつゆう・きのととり)」です。→私もあまり干支は得意ではありません。wikipedia干支をご覧ください。
「丁乙」という干支は当然ありません、「丁子(ちょうじ)」という干支もございません。
が、「壬子(じんし・みずのえ)」が日付、五行を勘案した日付となると、ちょっと特殊な扱いうけて特別な日付を意味することになります。
日付の干支に「八専(はっせん)」というのがあり、「壬子」は「八専」の日に相当します。→wikipedia八専
特に書籍などで調べていませんから、wikipedia八専が間違えていたら、私も間違えます。(^_^;)
49 | 壬子 | 水水 | |
50 | 癸丑 | 水土 | 間日 |
51 | 甲寅 | 木木 | |
52 | 乙卯 | 木木 | |
53 | 丙辰 | 火土 | 間日 |
54 | 丁巳 | 火火 | |
55 | 戊午 | 土火 | 間日 |
56 | 己未 | 土土 | |
57 | 庚申 | 金金 | |
58 | 辛酉 | 金金 | |
59 | 壬戌 | 水土 | 間日 |
60 | 癸亥 | 水水 |
最後に、実は「キュウ」という漢字があるのですが、パソコンのフォントにはありません。なので画像貼ります。
これも、なんかよくわかりません。平安官人のいたづらといいますか、「玉と読んだしょ?実はギョクじゃないんですよ」。
「記多真玉」は、「記多真、たま」と読むのかもしれませんね。わかりません。
この項目で「乙」にこだわった理由を示して終わります。
桓武天皇には同母弟早良親王がいましたが、この人は藤原種継暗殺事件に関わった嫌疑で乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されました。
また、桓武天皇の后を藤原乙牟漏といいます。そしてこの頃に順調に位階を登っていたのが、「続日本紀」編纂者のひとりである藤原継縄なのです。
「続日本紀」編纂を担った平安官人たちというのは、長岡京時代を知っていて、そこを切り抜けた人、その子供たちだったんです。たぶん o(^_^;)o
今上天皇さんが乙訓郡を訪問なされたとき、HP作成者も乙訓郡にいました。偶然ですけど。
※wikipedia桓武天皇(かんむてんのう) ※wikipedia早良親王(さわらしんのう) ※wikipedia藤原種継(ふじわらのたねつぐ)
※wikipedia乙訓寺(おとくにでら) ※wikipedia藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ) ※wikipedia藤原継縄(ふじわらのつぐただ)