宇治谷孟(うじたにつとむ)

宇治谷孟はその著書に「記多真玉」に読み仮名を付していますが、読みの根拠は全く不明です。

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めんどくさいですが、ひとつずつ見ていきましょう。クリック大きい画像

 

養老五年は「託多真玉(ただのまたま)」、天平十七年は「託陀真玉(ただのまたま)」となっています。

どこで姓と名を切るのかもよくわからないですね。屁理屈っぽいですが示します。

「託多/真玉(ただの/またま)」、「託陀/真玉(ただの/またま)」

「託多真/玉(ただのま/たま)」、「託陀真/玉(ただのま/たま)」

第一文字と第二文字を「託多」、「託陀」としていますので、狩谷棭斎説の変形である今泉忠義説を踏襲していることは明らかです。

宇治谷孟の経歴はこちら→画像

経歴に立命館大学経済学部とあります。私は立命産社卒ですので、学部違いの先輩筋ではありますね。

宇治谷孟の没年1992年平成4年、ちょうど私は一浪時代で予備校河合塾に通っていました。

ある日、豊崎交差点の歩行者信号の赤があまりに長く、全く車が通らないのに異様に長い歩行者信号赤にうんざりしていました。

信号機の故障かと思い信号無視して渡ろうとしたその時、右手方向から真っ黒い車が来たので立ち止まりました。

黒い車に菊のご紋章がついていて、驚愕しました。現皇太子殿下のお車でした.。

隣にいた知らない女性の顔と現皇太子殿下の顔を交互に見ながら、

いいいいいっ!えええええええ!わああああああああ!吉本新喜劇の内場勝則さんのような驚き方をしました。

飛び出していたら皇宮警察に射ち殺されていたことでしょう。(^_^;)

翌年、立命産社に合格して、入学しました。

宇治谷孟の「続日本紀」あとがきによりますと、宇治谷孟は「続日本紀」著述生活中に交通事故死したそうです。

あとがき→画像画像

 

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