串間子爵位穀玉璧(くしまししゃくいこくぎょくへき)
【玉璧の木箱】・【小野湖山】・【松浦武四郎】・【松浦武四郎紀行集】
wikipediaに串間玉璧はありません。串間玉璧に関して、インターネット上ではこのSファイルが情報量最大になります、なる予定。がんばります。 o(^_^)
概要がわかるサイト→くしま温泉いこいの里 ※注意※クリックすると25分動画自動再生されます(パソコンで確認済)
概要がわかるサイト→民俗学伝承ひろいあげ辞典
概要がわかるサイト→鴨着く島
串間西方を調べた地図→クリック大
「日本歴史地名大系宮崎県」→西方村 串間市の歴史1 串間市の歴史2 福島古墳群
「角川日本地名大辞典宮崎県」→串間市1 串間市2 西方1 西方2 西方3
【玉璧の木箱】
読まなきゃいかんものがたくさんありますが、概要を示します。最も確かな情報は、前田育徳会(前田家)に「玉璧」がある、ということだけです。
その伝世品「玉璧」の木箱に書かれた文章が、「玉璧」の由来を語っています。
「文政元年戊寅二月 日向国那珂郡今町農佐吉所有地字王之山掘出石棺所獲古玉鉄器三十余品一蓋日向上古之遺跡多矣所謂王之山亦必非尋常古塚
明治十年丁丑十二月 湖山長愿題」
これが箱書きで、箱裏には「多気志樓蔵」とあるそうです。※樓(楼)、ロウ・たかどの
由来は民俗学伝承ひろいあげ辞典参照です。現代語訳も参照にしつつ見てみましょう。
「文政元年戊寅」・・・・・・・・・・・・・・・「文政元年戊寅(つちのえとら)」、文政元年は西暦1818年だそうです。 →wikipedia文政(ぶんせい) →wikipedia戊寅(つちのえとら・ぼいん)
「日向国那珂郡」・・・・・・・・・・・・・・・「日向国那珂郡(ひゅうがのくになかぐん)」 →wikipedia那珂郡(日向)
「今町農佐吉所有地字王之山」・・・「今町(いままち)農人である佐吉の所有地、字(あざ)王之山(おうのやま)」 →wikipedia福島今町駅(ふくしまいままちえき)
「掘出石棺所」・・・・・・・・・・・・・・・・・「(字王之山を)掘ると石棺が出て、そこの所から」
「獲古玉鉄器三十余品一」・・・・・・・「古玉鉄器三十余品を獲る、(玉璧はその中の)ひとつである」
「蓋日向上古之遺跡多矣」・・・・・・・「蓋し、日向(には)上古の遺跡、多(い)」 ※蓋し(けだし)、思うに、考えるに ※矣(イ)、文末の置き字、強調
「所謂王之山亦必非尋常古塚」・・・「所謂(いわゆる、世に言う)、王之山もまた必ず尋常(じんじょう)ならざる古塚(ふるづか)であろう」
「明治十年丁丑十二月」・・・・・・・・・「明治十年丁丑(ていちゅう)十二月」 →wikipedia1877年(明治十年)
「湖山長愿題」・・・・・・・・・・・・・・・・・「湖山長愿(こざんちょうげん)、題す」
箱裏「多気志樓蔵」・・・・・・・・・・・・・「多気志樓蔵(たけしろうぞう)」
わたくしは…大学受験レベルの漢文しかわからないレベルですが、えらく、なんと言うか、下手くそな漢文モドキですね! (^_^;)
で、大学在学中やら卒業後の今まで、独学で幕末明治維新を勉強して様々な文章を読むとですね、これは何かある文章、とっても怪しい文章に見えます。
他意を明らかに含んでいる文章ですよ、これは。これは、これは、怪しすぎる。百万石前田家に差し上げる文章にしては、とっても怪しい文章です。
日向国那珂郡今町は現在の串間市で、旧高鍋藩串間領となります。 →wikipedia串間市 →wikipedia高鍋藩(たかなべはん)
藩主はこちら→wikipedia秋月種任(あきづきたねただ) →wikipedia秋月種殷(あきづきたねとみ)
那珂郡今町は、現在の串間市に今町というのがありますが、高鍋藩政時代での今町と一致するのかどうかはわかりません。
wikipedia福島今町駅にあります通り、今町駅の住所は「西方(にしかた)」となっています。
現在の地図で見るに、串間市内に「王之山」という地名は無いんですよね・・・古地図にも無い悪寒がしますねぇ・・・調べてないです。(^_^;)
私、この「玉璧」を調べ出した頃、地名調べだけで挫け(くじけ)そうでしたよ。串間が薩摩藩でなかったことを恨みました。
薩摩藩って大藩なので、こういうことは案外しっかり記録するもんなんですよね。
で、画像にして貼り付けた串間市の資料なんかを全部読むハメになっちゃったんですよ。
そこから見えてきたのは、「串間」と「今町」は別ということなんです。「西方」のなかに「今町」があり、「西方」と「串間」は別なんですよ。wikipedia串間市がわかりやすい。
よって、日向国那珂郡今町は、日向国那珂郡「西方今町」とのことのようなんですよ。
グーグルの地図検索で「串間市西方」をご覧になっていただけばわかります通り、「串間市西方」は広大です! \(^o^)/ 山ばっかり!
結局、「王之山」が何処(どこ)なのか一向にわかりません。福島古墳辺りなのか、本西方、平原、色々調べましたがわかりません。
怪しい・・・怪しすぎる・・・わからんまま次に行きましょう。 (^_^;)
【小野湖山】
書付を書いた「湖山長愿(こざんちょうげん)」を調べましょう。「湖山長愿」は小野湖山のことだそうなので、小野湖山を調べましょう。
→wikipedia小野湖山(おのこざん) →wikipedia三河吉田藩(よしだはん) →wikipedia横山党(よこやまとう)
→スピンオフ「玄武神社」千本閻魔堂
人物誌画像 クリック大。出典わかりません。歴史人物事典のようなものからのコピーだと思います。
wikipediaのほうがわかりやすいです。
ご覧の通り、小野湖山は幕末から明治の漢詩人です。「玉璧」書付漢文モドキの怪しさが倍増しますね。
書誌
小野湖山編集詞華集「優遊吟社詩」解説 「玉池吟社詩」解説1 「玉池吟社詩」解説2
書誌
「玉池吟社」は梁川星巌が主催したグループで、小野湖山がそこに属していたことがわかります。 →wikipedia梁川星巌(やながわせいがん)
梁川星巌、大垣の人・・・これはですね、西郷隆盛や大久保利通、中村半次郎などの薩摩武士はすぐに感づいたと思うんですよ。
大垣藩は戸田家で、戸田家は赤穂事件に関わりがあるからです。 →wikipedia大垣藩(おおがきはん) →wikipedia赤穂事件(あこうじけん) →wikipedia戸田氏定
忠臣蔵、赤穂浪士事件は、薩摩武士の一般教養で幼少期から学ぶ武士道教育のひとつでした。
薩摩武士だけでなく、百姓も地域教育機関「村の青年団(にせどん)」を通じて忠臣蔵のような武士道教育を学んでいました。
私は武士でも百姓でもありませんが、家庭教育のおかげで、「梁川星巌、大垣」と見ただけで、「ああ・・・なんかややこしいやろな」と思いました。
関ヶ原合戦で、島津義弘公と豊久公が石田三成方西軍についた時も、大垣ではひと悶着ありましたから、
薩摩武士にとっての大垣は印象に残りやすいですね。
ざっくり言いまして、小野湖山を調べて梁川星巌大垣が出てきた時点で、良からぬ集まりやろなと私は偏見を持ちました(笑)。
【松浦武四郎】
箱裏「多気志樓蔵」、行きますか。怪しさ満点ですね。
→wikipedia松浦武四郎(まつうらたけしろう)
書誌
赤枠明治五年の記事は、松浦武四郎が、金沢為替所(銀行)東京出張店に現金千両、現金八百両を二回に渡って貯金したという内容です。
金沢為替所(銀行)というのは、金沢為替会社のことだと思われます。 →銀行図書館 →レファレンス協同データベース
前田家と松浦武四郎が繋がりましたね。
明治六年のほうは、小野湖山とともに屋敷を買った話です。
この明治5年、6年より前の明治3年、松浦武四郎は岩倉具視邸に寓居(ぐうきょ)していたようです。このことは後で繰り返し書くと思います。
書誌「松浦武四郎紀行集(中)」
「松浦武四郎紀行集(中)」収録「竹島雑誌」表紙のページ
クリック大 表紙と現存本の状態(文部省資料館蔵昭和50年当時)
松浦武四郎は明治2年8月2日開拓判官拝命で、9月20日に辞職願い提出してます。 光速辞職ですね・・・ (^_^;)
この後、岩倉具視邸に住み着いたようです。この頃書いたのが「竹島雑誌」で、著述名が「馬角斎(ばかくさい)」だったそうです。
最初に書いた松浦武四郎「日向薩摩紀行」は、別ページ立てにしました。 →「人物叢書松浦武四郎」 ※叢書(そうしょ)
全部調べたつもりでしたが調査不足でした、「Sファイル」の欠点が露呈しました。
「Sファイル」は、私が大要分かればいいというのがどうしてもベースとしてあります。
歴史資料調べはお金と時間の掛かることなので、「だいたい、このへんか」と思ったらそこで調査を止めてしまうことがあります。
今回、大失態を演じた「松浦武四郎」の「だいたい、このへんか」というのは、
松浦武四郎単独にて日向から「串間玉璧」を持ち出すのは無理で、高鍋藩秋月家の関与があっただろうということです。
【松浦武四郎紀行集】
松浦武四郎が日向国薩摩国に行ったことがあるのかどうか見ていきましょう。
「松浦武四郎紀行集」(2016年9月2日立命図書館)
書誌「松浦武四郎紀行集(中)」
「松浦武四郎紀行集(中)」 に収録されている「旅行手記」から見てみます。
「旅行手記」表紙のページ
クリック大 「旅行手記」原文について(赤枠)
クリック大 高千穂以降を見ます、1枚目
高千穂は日向国西臼杵郡となります。「七ヲリ坂」は「七折村」だと思います。 →wikipedia西臼杵郡(にしうすきぐん)
「七折」の現住所は、宮崎県西臼杵郡日之影町七折が該当するかと思います。「宮水」も日之影町になっています。
「宮水」の読みは「みやみず」のようです。 →ホームページ日之影町立宮水小学校 こういうので、すぐに読みがわかるので助かります。(^_^)
画像で文章をご覧いただけましたらわかります通り、この人松浦武四郎、実証主義精神に欠けているというか・・・日付とか天気を書かないんですよ・・・
師匠が旅キチ詩人芸人梁川星巌だからなんですかね・・・使いもんにならん文章です。
桐野利秋(中村半次郎)でも「京在日記」(桐野利秋日記に収録)に、日付と天気ぐらい書いてますよ。
地名が書いてあっても、松浦武四郎が行ったかどうかわかりません。行ったかどうか判定する判断基準も、私は示すことができません。
まあ、松浦武四郎がそういう書き方してるんだから仕方ありません、感覚的な判断に頼るしかないので、諦めて下さい。
次、延岡。 →wikipedia延岡藩(のべおかはん) →wikipedia延岡市 →wikipedia内藤政義(ないとうまさよし)
特に問題は無いようですが、色々書かれてある地名に、松浦武四郎が実際に訪問したかどうかはわかりません。
日向国一ノ宮都農神社。この神社、私、知りませんでした。日向一の宮自体を知らなかったという・・・ (^_^;)
→日向一之宮都農神社 →wikipedia都農神社(つのじんじゃ)
続いて、高鍋城下。 →wikipedia高鍋藩(たかなべはん) →wikipedia秋月氏(あきづきし)
秋月氏と接触してないか注意深く読んでみましたが、変わった様子は在りませんね。
本庄。ここも錯綜してます。日向カオスなので、さらりと通過しましょう。 →wikipedia東諸県郡国富町(くにとみちょう)
佐土原。宮崎郡佐土原町は、現在宮崎市となっているそうです。 →wikipedia佐土原町(さどわらちょう) →wikipedia佐土原藩(さどわらはん)
佐土原は戦国時代以来薩摩人の支配地域なんですが、何故か、松浦武四郎は「鍋嶋淡ヂ〔路〕ノ守城下」と記述しております・・・
よくわかりません、佐土原に訪問してないから、こうなるんでしょうか? (^_^;)
薩人支配の佐土原は楽やろうと思っていたら・・・武四郎、一体何を考えとるんや!鍋島淡路守って誰や! o(>_<)o
菩提所、大光寺とあるので、こちら→宮崎市観光協会大光寺 バリバリの島津家支配地域佐土原、何故に鍋島淡路守?わからんです。
一応、鍋島淡路守を検索してみました。こちらに、鍋島淡路守のお名前がありますが時代が異なりますね。→小城千葉氏
他にもネット検索で、鍋島淡路守が出てきますが、戦国時代の人のようです。
で、よくわかりません、佐土原藩を鍋島淡路守城下とした松浦武四郎の意図がわからんです。
この「旅行手記」は、松浦武四郎のメモ帳みたいな物で出版するつもりのなかったものなので、個人のメモと解釈しておきましょう。
クリック大 2枚目
各寺社名所が書いてありますが、生目(いきめ)まで飛びます。生目八幡宮、有名な神社のようです、知りませんでした。 →wikipedia生目神社(いきめじんじゃ)
生目、中村町から、何故か折生迫村(おりゅうざこむら)まで記述が飛びます。
中村町は現在の宮崎市中村東と中村西が該当すると思います。中村町湊から折生迫町までは、船旅だったのでしょうか?わかりません。
日本歴史地名大系宮崎県、画像001 画像002 画像003 画像004 画像005
日本地名大系宮崎県画像001
日向国折生迫村(おりゅうざこむら)、現在は宮崎市青島町にあたるそうです。 →wikipedia折生迫駅(おりゅうざこえき)
って、wikipedia読んだら、折生迫駅の住所は宮崎市大字折生迫になってますね。
グーグルマップで確認すると、大字折生迫と青島町の境界線が折生迫駅近くに通ってますね。
青島町と言うと大字折生迫も含んで示し、厳密な意味の住所では大字折生迫のようです。
→wikipedia宮崎市立青島中学校 →宮崎市立青島中学校HP(ここの地図がわかりやすい)
寛文四年(1669年)の清武御検地合書寄帳では「那珂郡加江田村之内」と注記されているそうです。 →wikipedia那珂郡(なかぐん)
明治維新まで、日向国那珂郡折生迫村は加江田村之内ですから、飫肥藩領伊東家ということになります。 →wikipedia北那珂郡(きたなかぐん)
ややこしいので、あまりやりませんが、那珂郡から北那珂郡、宮崎郡と変遷していきます。 →wikipedia宮崎郡 →wikipedia青島地域自治区
日向国カオおおおおおおおおおおおおおおおおおスっ!! ・・・ (^_^;) 疲れますねぇ、読むだけでも大変ですね。
私の名前は「りゅう」です。「おりゅう、ざこ」なんて地名、びっくりしました。
鴨就淡嶋宮(かもつくあわしまぐう)と、松浦武四郎が書いている神社は、青島神社のことです。 →wikipedia青島神社(あおしまじんじゃ)
武四郎が「景色、紙筆につくしがたし」と記す通り、ネットで画像見ると、とても綺麗な景色ですね。 (^_^) 南国の海と空はいいですね!最高じゃ!
「雲海山日御崎寺」は、現在の日之御崎観音寺のことのようです。 →あおしまを歩こう!折生迫エリア
次が内海、だんだん串間に近付いていますね! →wikipedia日南線内海駅(うちうみえき)
内海から鵜戸ですが、この間に「ををき(檍)の御番所」があったようなんですが、「ををき(檍)」が何処なのか全くわかりません。
手元にある地図で内海から鵜戸へ(北から南へ)の地名を記します。
内海(うちうみ)、小内海(こうちうみ)、いるか岬、伊比井(いびい)、富士、小目井(こめい)、宮浦(みやうら)、鵜戸(うど)。
グーグルマップでは「富士第二海水浴場」とあるのが小目井で、
松浦武四郎が記す里程から考えると、「ををき(檍)の御番所」は小目井北側の山中にあったのではないでしょうか。
松浦武四郎は記していませんが、宮浦に古い神社があります。 →宮巡宮浦神社 →Photo Miyazaki 宮崎観光写真
「鵜戸山仁王護国寺」は現在の鵜戸神宮です。 →wikipedia鵜戸神宮 →観光日南の旅 →鵜戸神宮
城下はおそらく、飫肥藩藩都の日南市飫肥だと思います。 →wikipedia飫肥藩(おびはん) →wikipedia飫肥城
榎原山は榎原(よわら)、読めませんでした、この難読地名。 (^_^;) 読み方こちら→観光にちなんの旅 →観光にちなんの旅榎原神社
榎原と目井津(めいつ)は旧南郷町です。 →wikipedia南郷町(なんごうちょう) →日本地名大系宮崎県画像004
「うと山麓深毛井と云浦也」(鵜戸山ふもと、深毛井と云う浦なり)、どこかわかりません。
「小吹毛井」という地名があり、小さな漁村があったような感じの地形です。 →バス停マップ「小吹毛井(おぶきけい)」 →オープンデータジャパン
愚痴・・・こういうことは松浦武四郎研究家がやっといてくれよ・・・だるいわっ! /(_-_;)\ 俺は無給でこんなことせなあかんなんて・・・
んで、「うと山麓深毛井と云浦也」、どこかわかりません。地元に問い合わせてみるしかないです。
油津は簡単にわかりました。行ったことはないですが、地名は知ってました。
→油津港(あぶらつこう) →日南線油津駅 →観光にちなんの旅 →国土交通省港湾局産業港湾課・観光庁国際観光課
日向灘の新鮮な魚と焼酎が美味そうなところですね!行ってみたいです。 (^_^)
鵜戸から油津に向かうと、油津の手前に風田(かぜた)という所があります。
松浦武四郎は風田を記していませんので、鵜戸から油津へは船に乗ったのかもしれません。と思ったのですが、「浜通り道より油津と云へ行也」と書いてます。
→みやざき観光情報風田浜 →日南テレビ →GNAVI風田神社 →日南市ナビ風田神社
武四郎の頃はまだ小さな漁村で、明治維新以降に開けた地域になったのでしょうか?
よくわかりませんが・・・鵜戸から油津、そして目井津となります。 →観光にちなんの旅 →港の駅めいつ
それにしても魚と焼酎が美味そうな所ですね。 (^_^)
油津から南へは、松浦武四郎は大堂(おおどう)と記しているのですが・・・正しくは「大堂津」のようです。しかも、現地発音は「おおどつ」のようです。
→wikipedia日南線大堂津駅(おおどうつえき) →日南海岸風景大堂津 →観光にちなんの旅
薩摩みたいになんて言うと失礼ですが、 (^_^;) とても綺麗な所ですね。松浦武四郎旅程解読で、南国日南海岸が好きになってきました。
「法雲山寶珠庵」、「虚空蔵尊の僧〔像〕有」とあるので、おそらく虚空蔵島(こくぞうじま)のことだと思います。 →日南市ナビ
「是より戸の浦へ一り。」、これも間違いで、正しくは「外浦」だと思います。読み方は「とのうら」。 →日本郵政外浦郵便局
海釣りで有名な所のようです。 →釣り情報サイトwiredFish外浦港 →Miranka外之浦港
鵜戸・日崎・風田・油津・大堂津が旧日南市、目井津・外浦は旧南郷町。ここまで海側です。
南郷川沿いに西へ向かう山中に榎原があり、この道は串間に出る道です。榎原は藩境に近い町です。東が飫肥藩、西が高鍋藩飛び地串間領。
「櫻井榎原西大神」は榎原神社のことで、先に書いた通りです。→観光にちなんの旅榎原神社 →日南線榎原駅(よわらえき)
「是より一り行ば福嶋の番所。秋月領なり。」、松浦武四郎の書く通りです。福島は串間のことで、秋月領は高鍋藩秋月氏です。
その「秋月領」串間の記述が始まります。
南郷町山中榎原から、いきなり、串間市「上ノ町」です。 (^_^;) 飛びすぎな気がします・・・ →国土地理院の地図串間
読みは「くしまかみまち」のようです。 →日本郵政串間上町郵便局
「中ノ町」は正しくは「仲町」で、現在その町名はないようですが、串間駅近くにある商店街の名前で残っていました。
→みやざきの商店街プラッチョ 「なかんまち」とあるので、読みは「なかのまち」ですね。 →多摩地区そして日本各地の画像集「串間駅周辺」
この読みを知りたかったのは続日本紀に関連するからです。 →Sファイル狩谷棭斎(かりやえきさい) →Sファイル記多真玉(続日本紀)
と、既に書いたSファイルページをあげましたが、すごおおおおおおく、わかりにくいですね。 (;^_^A アセアセ・・・ 書きます。
続日本紀天平宝字五年三月記事にある「荅他伊奈麻呂等五人」に与えられた姓(かばね)が「中野造」です。 ※「中野造」読み、通常は「なかののみやつこ」
串間の町は福島川に沿う町で、北から串間神社、北方(きたかた)、上町(かみまち)、仲町(なかのまち)、今町(いままち)です。
仲町(なかのまち)の現地発音が「なかんまち」というのが面白いですね。当たり前と言えば当たり前ですが。
串間の地名には、もともとは「の」が入った地名だった可能性がありますね。
『北方(きたかた)』 北方(きたのかた)→現地発音きたんかた→「ん」が落ちて、きたかた
『上町(かみまち)』 上町(かみのまち)→現地発音かみんまち→「ん」が落ちて、かみまち
『仲町(なかのまち)』 仲町(なかのまち)→現地発音なかんまち→何故か「ん」が落ちずに、なかんまち、現在に至る
『今町(いままち)』 今町(いまのまち)→現地発音いまんまち→「ん」が落ちて、いままち
『西方(にしかた)』 西方(にしのかた)→現地発音にしんかた→「ん」が落ちて、にしかた
仲町(なかんまち)商店街、残っててくれてて、ありがとう!と思いました。 \(^_^)/ これが歴史と地理のおもしろさですね!
私事になりますが、既にこちらに書いてあります。→スピンオフ平安京の闇伏見大黒寺
わけのわからん上司に「中野間」と呼ばれ、名札まで「中野間」にされたことがあります。で、そういう経験主義を押し通そうとするでしょ、戦後の日本社会は。
串間市に仲町商店街があることなんて知らなくてもいいことだとは思いますよ。
しかし、私の名前「北ノ間」を「中野間」てね、いやがらせ以外の何物でもないですよ。こういう経験主義が行き詰ってきたから、日本経済が没落してるんです。
続日本紀の記多真玉なんか知らん、中野造なんか知らん、串間仲町なんか知らん、
でも「北ノ間」という奴を「中野間」と呼んで名札まで作って、いやがらせしてやった、これが経験主義です。
人としての進歩の欠片もないですね。もうね・・・日本人は真面目に勉強しなきゃいかんと思います。特に会社勤めと公務員。
はい、次。松浦武四郎が書いている通りです、高松は高松、夏井口は夏井口です。
→wikipedia日南線福島高松駅 住所も串間市大字高松になってますね。ここはまだ高鍋藩飛び地串間領で日向国那珂郡(後の南那珂郡)です。
「夏井口へ三り。此所ニ薩州入口御番所有。是より日州諸県郡なり。」、書いてある通りです。
松浦武四郎の頃は、日向諸県郡です。現在は鹿児島県志布志市です。 →wikipedia日南線大隅夏井駅(おおすみなついえき)
志布志もそのままです、志布志。薩摩藩領です。
クリック大、3枚目
「十三新大明神」、これは串間神社のことです。 「角川日本地名大辞典宮崎県」西方2、これに書いてあります。
その「十三新大明神」が、「池ノ上村」にあると松浦武四郎は書いてるのですが、ありません。地図にもないです。 →wikipedia串間市(くしまし)
wikipedia串間市と現在の地図を見るに、北方村の字地名が「池ノ上」なのかもしれません。
で、グーグル地図をよおおおおおおおおくっ見て下さい。神社南側、串間神社の入り口の所に「下池自治会館」とあります。
神社北東には「東上池集落センター」というのがあります。古地図等で調べたら、松浦武四郎が書いた通りの「池ノ上」という地名があったのかもしれません。
それよりも、串間神社が「池」地名に囲まれているのが面白いですね。現在の地図では、どう見ても池は無いと思います。
神社が小島のようになっていたのかも・・・何百年もの時間で池が干上がったのでしょうか?
立命館大学旧衣笠図書館でコピーしてきた国土地理院地図に「池ノ上」のような地名、ありますね。 →地図
右端の真ん中より上に、串間、徳間、池上とありました。たぶんこれですね。
「池ノ上」も「池上」も、読み方わかりません・・・ (^_^;)
それにしても松浦武四郎、十三新大明神について、あれ見たこれ見たとは書いてませんね。全く興味なさそうな文章ですね。
たぶん、行ってないんでしょう。何かの読み物を見ながら書いた雰囲気がたまりませんね。
薩摩・大隅・肥後は省略します。興味ある方は画像見て検証してみて下さい。
私見ですが、松浦武四郎は薩摩に入国してないと思います。
【松浦武四郎・西海雑誌】
画像、あげていきますが、詳しくはやりません。
犯人は松浦武四郎なんでしょうか?「串間玉璧」を日向国から持ち出したのは、ほんとうに松浦武四郎なんでしょうか?
ことの原点に戻りましょう。
「串間玉璧」について書かれた最初の文章は、驚くべきことに小野湖山による箱書きという事実です。
小野湖山の書付「明治十年丁丑十二月湖山長愿題」、これが正しいのなら、この時まで「串間玉璧」について記した者はないのです、日本列島有史以来絶無。
あ・や・し・い・・・・・・小野湖山が怪しいですね・・・・・・ (-_-;)y-~ 振り出しに戻る・・・
原点に、原点に戻りましょう。 o(>_<)o
私が前田育徳会を問題にしないのは、百万石前田家の威光を信じるからではありません。
文化財を必死に守ってきた歴史的な姿勢に、やましい曇りはないと信じるからです。 →公益法人ナビ前田育徳会 →wikipedia前田育徳会
ですが・・・なぜ、前田家にあるんやあああああああああああああ o(>_<)o
文政元年(1818年)から明治10年(1877年)までの、前田家の記録を調べれば何か書いてあるかもしれません。
小野湖山、松浦武四郎、高鍋藩秋月家や梁川星巌も含めて、誰一人として「串間玉璧」について書き残していません。
小野湖山の箱書きが唯一です。
結果論でしかありませんが、幕末明治を彷徨う日本列島最高宝器「串間玉璧」が経済力のある前田家に渡り、
現在も前田育徳会によって守られ、失われることなく、私のような一介の者でも様々なメディアを通じてその姿を見れることを有り難く感じます。
そのうえで、恐るべき陰謀を想像してみます。
秋月家と前田家が結託していて、小野湖山の箱書きは偽造という場合を考えます。 →スピンオフ串と石と火年金手帳
小野湖山と松浦武四郎は、秋月家と前田家に徹底的に調査された上で、
松浦武四郎は「玉璧」持ち出しの犯人、小野湖山はその証言者に仕立て上げられたということになります。
こう考えると、串間神社から「玉璧」を持ち出して農人佐吉の話をデッチ上げるのは高鍋藩の担当、
高鍋藩から「玉璧」を受け取った前田家は、いつ頃になるんですかねぇ・・・明治5年以降に書付を偽造したのかもしれませんね。
この可能性を潰せるものはあるのでしょうか。
松浦武四郎だけが何も知らないまま、名前を使われた場合、小野湖山が全てを知っていたことになります。
でも、松浦武四郎、変な文章を書き残しています。
書誌「松浦武四郎紀行集(中)」
「松浦武四郎紀行集(中)」の「木片勧進」表紙ページ 「木片勧進」表紙と現存本の状態(校訂者蔵昭和50年当時)
「壁書」なるものが書かれた日付は、明治19年12月31日となっております。
飫肥藩第13代藩主伊東祐相と高鍋藩第10代藩主秋月種殷はともに明治7年に他界。加賀藩第13代藩主前田慶寧も明治7年に他界。
→wikipedia伊東祐相(いとうすけとも) →wikipedia秋月種殷(あきづきたねとみ) →wikipedia前田慶寧(まえだよしやす)
明治10年木戸孝允病死、西郷隆盛自刃、明治11年大久保利通暗殺。 →wikipedia木戸孝允(きどたかよし) →wikipedia大久保利通(おおくぼとしみち)
紀尾井坂の変(大久保利通暗殺)は石川県士族(旧加賀藩士)による凶行でした。警視庁の川路利良は明治12年病死。
明治16年は岩倉具視が他界、明治17年には加賀藩第12代藩主前田斉泰が他界しています。 →wikipedia岩倉具視(いわくらともみ) →wikipedia前田斉泰(まえだなりやす)
松浦武四郎自身は、明治21年他界となります。
「串間玉璧」のことを公言せずに死んだ感じがしますねぇ・・・・・・。
→スピンオフ伏見大黒寺に書いた在日種満石(みついし)、確かこいつの名が「泰英」だか「泰栄」だったように思います。
小野湖山が明治43年まで長生きしてますが、「串間玉璧」のことは箱書き以外は何も残していません。
湖山は明治16年に、明治天皇より硯を下賜されています。 →wikipedia小野湖山
では、串間神社。江戸時代より以前に、串間神社のご神体が「玉璧」だったとすると、色々と歴史話が上手く流れ出します。
先ず、串間神社から見ていきましょうか。場所は日向日南線日向北方駅の北東です。 →wikipedia日向北方駅(ひゅうがきたかたえき)
その串間神社なんですが、ネット上には詳しい解説がありません。一応あげますが、穂穂の宮・穂穂の壇について書かれているものは少ないです。
→串間市観光協会串間神社について →宮崎県神道青年会宮巡串間神社 →扉の向こうへ串間神社
私がコピーしてきた画像(昭和天皇の次)が詳しいし、これぐらいしか資料がありません。
串間市串間神社の地図を見てますとねぇ・・・桃太郎伝説発祥はここなんじゃないかと思えてきます。 (^_^;) →wikipedia桃太郎
上流にあった塚(古墳)が崩れて副葬品が流されて、「玉璧」が見つかった場所に串間神社が建ったんじゃないでしょうか。
上流ではなく、串間神社の東側、串間市立北方中学校のある山が崩れてでもいいです。「王之山」はここなんでしょうか!
日本全国にある桃太郎伝説の説明も楽になりますね。「玉璧」の持ち主だった王の末裔が全国に散らばり、桃太郎伝説を残したと・・・。
「も、もぉ」、「も、もぅ」なら、鹿児島の方に通じますよ。
最初の「も」はもう少しのもう、更にという意味で、後ろの「も」は舞うという意味になります。
「もも」「ももぉ」「ももぅ」は、鹿児島弁で解釈すると、「更に舞う」となります。
自分たちの王の墓が天然災害によって壊れた不幸を嘆くよりも、
王の象徴「玉璧」が発見された場所に「穂槵の壇(ほくしのだん)」と名付けて、死んだ王が玉璧とともに舞った(もも)と見る感性。たくましいですね。
※「槵」、「くし」と読ませるようですが、通常は「カン」「むく」のようです。
桃太郎は作り話ですが、そういう話が流布されたんじゃないでしょうか。
「串間玉璧」の持ち主だった「王」のことを考えようとしているのですが、これは容易なことではありません。
私は、これは・・・埋葬したものを掘り返して取り出してきたんじゃないかと思うんです・・・。
掘り返して、ご神体として置いておく政治的必要に迫られたんじゃないでしょうか。
そう考えてみると、天照命の「岩戸」神話というのが、「玉璧」取り出しの伝説を仮託されたものに見えてきませんか。
さて、どこまで書いていいのやら・・・あくまで、私の想像です。
玉璧が墓から取り出された時期は、「漢委奴國王」金印下賜後で、卑弥呼の時代には地上にあった。
串間神社のご神体として、いつの頃かに地中に埋められ、時を過ごした。江戸時代、高鍋藩秋月氏によって串間神社から流出して、江戸にゆく。
想像に立つ想像なので、たわいない話ですが、歴代倭王は大陸王朝に対して、史書からの「子爵位穀玉璧」下賜記事の削除を求めていたのではないでしょうか。
何世紀にも渡る、倭国、日本国の念願が叶ったのは、藤原不比等の時代ではないかと私は思っています。
藤原不比等の栄華の根源には、大陸史書から「子爵位穀玉璧」を消し去った事績があったのではないでしようか。
証拠は、ない! (^_^;) 藤原不比等が気になって仕方ないです。
大陸史書からの「子爵位穀玉璧」下賜記事削除、一掃は、九州王朝(倭国)を終わらせた以上の功績だと思います。
【工事中】
以下も工事中です。
出典はおそらく「写真集明治大正昭和串間・ふるさとの想い出281」(国書刊行会)だと思います。
クリックで大きい画像
私の誕生日は昭和48年(1973年)4月6日です。画像にあります通り昭和天皇皇后両陛下が宮崎県串間市をご訪問なされたのは昭和48年(1973年)4月10日です。
語呂合わせは大嫌いなのですが、社会性の観点から黙認することはあります。4月10日「嫉妬」との語呂合わせを、私は父の名「き・よと」と読みたくあります。
よど号ハイジャック事件を知らない方はこちら →wikipediaよど号ハイジャック事件(私が生まれる前の事件ですね)
さらにこちらもどうぞ →wikipediaよど号グループ 極左(ごくさ)の専門家もどうぞ→wikipedia佐々淳行(さっさあつゆき)
佐々淳行は昭和天皇大喪の礼を指揮した方で、何冊もこの方の著書を読みました、おもしろいですよ。
【以下スピンオフのようなお話です。気楽に読んでください。】
子爵位穀玉璧が日本列島にあったということは、下位の男爵位玉璧もあったと思うんです。二つ以上の男爵位玉璧があると思います。
薩摩で男爵(バロン)と言えば、バロン西が有名ですね。私も非常に尊敬している人物です。
→wikipedia西竹一(にしたけいち) →「二つの物語第2話バロン西と愛馬ウラヌス物語」
私の薩摩の祖父母も明治生まれで、バロン西より五、六歳下になります。
その祖父母ともに故人で、祖父の形見も祖母の形見も私は持っています。祖父五郎左衛門の形見のお話です。
私が持っている祖父の形見は水筒で、祖母からいただいたものとなります。二本もあるのですが、何の変哲もない魔法瓶、保温水筒ですよ。
農作業にゆく祖父のため、祖母が町で買い求めてきたものと聞いています。
この形見の水筒、京都歩きする時に私が使っていたのですが、形見とは知らない人には、どこにでもあるような水筒なので、
盗まれたりいたずらされて紛失したら大変だと思うようになり、使用を止めました。
最近、おもしろい話を知りました。こちらです→おいわず様親孝行の竹筒