「人物叢書松浦武四郎」

書誌 「人物叢書松浦武四郎」 ※叢書(そうしょ)

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以下、2016年8月末時点までの調べで書かれたものです。調査不足であったことを示す文章です。

 

これは、松浦武四郎が現宮崎県に行った記録を示すものです。このことにしても、資料はこれしかありません。

この資料の文章の基(もと)になっているのが「西海雑誌」という書物です。見つかりません、未確認です。 →見つかりました!調べておきます。

Sファイル串間子爵位穀玉璧

基資料である「西海雑誌」を未確認ですが、この文章だけでも怪しさ満点松浦武四郎を味わえます。

二つ目の赤枠「四年の行路は、天保九年(一八三八)」から、大きい赤枠の旅程が天保八年(1837年)の10月11月12月のことと読めます。

なじみある北薩や南肥後の地名があるので、一瞬で嘘くさい旅程とわかったのですが、文章引用しつつ順番に見てみましょう。地図でも見ながら気楽に読んで下さい。

 

引用【さらに阿蘇を日向の高千穂の祖母岳に、延岡・三福寺・佐土原・東西霧島山に登り、】

私は日向の地理には詳しくはないです、「東西霧島山」、これ、わからんです。わからんですが調べてません。

 

引用【飫肥(おび)・都城(みやこのじょう)・国分(こくぶ)・加治木(かじき)から】

さらりと書いてありますが、飫肥藩から島津家日向領都城に「入国」していますね。 (^_^;) 怪しい奴ですねぇ、武四郎・・・

どうしましょう・・・飫肥藩から片付けますか。 →wikipedia飫肥藩(おびはん) →幕末の飫肥藩主伊東祐相(いとうすけとも) →wikipedia飫肥

日向国は古来より大隅国、薩摩国との国境のみならず、日向国内郡境も錯綜しております。

時代、時代に国境や郡境が変わり、その混乱は驚くべきことに明治時代にまで及んでいます。

江戸時代の飫肥は、串間と同じ日向那珂郡でした。→wikipedia那珂郡(日向国)

那珂郡飫肥と那珂郡串間は同じ那珂郡ですが、支配大名が異なっていました。那珂郡飫肥・飫肥藩伊東家、那珂郡串間・高鍋藩秋月家であったわけです。

そして、那珂郡飫肥と串間の西側に日向国諸県郡があり、飫肥の西に諸県郡都城があるわけです。 →wikipedia諸県郡(もろかたぐん) →wikipedia都城

さて、問題の飫肥→都城の行程は、同じ日向国内とは言え、那珂郡から諸県郡へ、飫肥藩から薩摩藩への「入国」となるわけです。

私がこれだけしつこく書くのは、薩摩から見れば飫肥は明らかに他国であり、

幕府が薩摩討伐なるものを発動した場合は、飫肥と都城は最前線となる「藩境」であるわけです。

北薩側に血縁地縁を持ち日向国の地理に暗い私でも、飫肥都城の「藩境」「国境」の意味がわかります。

ほんとうに、大袈裟(おおげさ)ではなくて、飫肥と都城は「別国」です。薩摩びいきとか薩摩側のプライドとかでなく、飫肥と都城は完全に「別国」です。

薩摩人やその係累でないとその感覚はわからないだろうと思いますので、これだけしつこく書いてます。 (^_^;)

よく、小説に「日向送り(東目筋)」「出水送り(西目筋)」「境送り」は「国境で斬り捨てろ」という意味の隠語とされる通り、薩摩の国境というのは恐るべき厳格さを持っています。

こんな隠語が使われていたかどうか確証があるのかどうか知りませんが、

「島送り」の反対、つまり死刑なら、そのような隠語だったのかもしれないとも思えます。

宗教の面で見ますと、薩摩藩は「念仏停止(ねんぶつちょうじ)」をしていました。 →wikipedia隠れ念仏

明治維新後、日向国(宮崎県)が鹿児島県に編入された時、「念仏停止」が様々な問題の一つとなりました。

怪しい男松浦武四郎を調べ出した頃、飫肥から都城に入る道を最初は「日向街道」(現国道10号線)と思っていました。→wikipedia国道10号線

都城盆地北東側に繋がる道が「日向街道」でした。東諸県郡高岡町から都城へ入る道なんですが、高岡自体が島津家の要塞ですね。 (^_^;)

wikipedia東諸県郡(ひがしもろかたぐん) →wikipedia旧高岡町

さつま人国誌「高岡郷の成立」(桐野作人さんは立命館文学部) →日向高岡城 →日向高岡城(城郭放浪記)

高岡ヤバイと思った怪しい男松浦武四郎が、高岡を避けて(さけて)飫肥や日南海岸へ向かった可能性は充分にあります。

飫肥から都城に入る道は現在の国道222号線となるようです。  →wikipedia国道222号線

松浦武四郎はほんとに、都城に行ったのでしょうか?薩摩藩に「入国」してないんじゃないでしょうか。   疑惑 (-_-;)y-~ 怪しい・・・

 

引用【鹿児島へは、他国人の入ることを許さないため、曹洞宗の僧侶となって入った。】

って、おい!なんでや! (^_^;) 疑惑巨大化です。

僧侶に化けて薩摩藩に入るなら薩摩藩外の飫肥で僧侶に化けて、「都城」「国分」「加治木」を経て「鹿児島」入りとならなければおかしいですね。

僧侶に化けるというのは、随分と都会的なセンスで楽しいですね!薩摩藩内を僧侶がうろうろしていたなんてのは、有り得ないと思うんですよね。

薩摩藩外から入ってくる僧侶は客人扱いで、相応の武士が同道するんじゃないかと思います。

薩摩の場合はですね、変装するなら山伏ですよ。僧侶ではなく山伏に変装するべきだと、私は思うんですよね。

でも、その山伏も藩や出先機関に届け出る登録制のようなものなのですぐに見つかってしまいますね。松浦武四郎、ほんとに薩摩に入国したのか?

 

引用【知人が逗留を奔走してくれたが、三日間滞在しただけで十月初旬】

嘘っぽいですねぇ。江戸で売ってた南九州の絵地図を見ながら作文したんでしょうか?

 

引用【伊集院・湊・串木・高江・西方・阿久根・出水・水俣・人吉を福浦・田奈久・佐敷より】

これ以上あばくな!やぼてんめ!と武四郎が叫んでも、あばきまっくて、さらしましょう。 \(^o^)/

鹿児島→伊集院は、まあ、いいんですが、伊集院→湊が私には、はあ?となりました。

「湊」と言えば、指宿の「湊」かと思ってしまったんですよ。 →wikipedia湊(指宿)

鹿児島から伊集院に移動して、なんで指宿の「湊」やねん?と思ったわけです。これはどうやら、市来(いちき)の「湊」のようです。 →wikipedia湊(市来)

次、串木→高江。串木はたぶん串木野で、高江は川内川南岸の高江郷だと思います。 →wikipedia串木野(くしきの) →wikipedia高江町

伊勢国生まれの松浦武四郎が薩摩藩領内に潜入したうえに、鹿児島→伊集院→市来→串木野→高江と旅したと書かれているんです。

有り得ません。 (^_^;) 嘘つくな、自称探検家。

 薩摩藩内でそのような移動ができるのは、士族でも城下士以上の者か、大名とその縁者に限られます。

他でそのような移動ができるのは出水兵児(いずんべこ)だけですが、これは肥後境の異変を知らせる者や緊急の用の往復に限定されます。

高江→西方→阿久根→出水、全部嘘ですね。出水→水俣、これも無理ですね、幽霊か死体にでもならないと出国できません。

薩摩側は出水で終わりですね、よくこんな嘘を書けるなぁ。

出水の関所の厳しさを物語る有名人。

wikipedia高山彦九郎(たかやまひこくろう) →wikipedia頼山陽(らいさんよう) →wikipedia平野國臣(ひらのくにおみ) 読み物「ものすごい先生たち124」

この文章書いてて初めてwikipedia平野國臣を読みました。やはり、山伏に変装して関所を抜けていますね。薩摩人西郷隆盛のアイデアでしょうね。

肥後側を見ましょうか。これも、いきなりおかしなことが書いてあります。私が最初におかしいと思った箇所です。

水俣→人吉、これは無理です、道がありません。道は、あるにはあるんですが・・・水俣から人吉に直通する道が無いのです。

北薩を知っている私は水俣から人吉と聞いたら、水俣→大口→人吉のコースだと思うんですね。  →wikipedia大口(おおくち)(現在は伊佐市大口)

薩摩藩出水から出国して肥後藩水俣、ここからまたまた薩摩藩大口に入国して、肥後人吉藩に出国。 →wikipedia相良家人吉藩

僧侶に変装せんでええんかい!武四郎!これは、おそらく参考にした地図に「薩摩藩大口」が抜けていたんじゃないでしょうか。

薩摩藩領大口を通らずに人吉に行くには、肥後芦北郡佐敷からとなります。 →wikipedia葦北郡(あしきたぐん) →wikipedia佐敷(さしき)

引用【水俣・人吉を福浦・田奈久・佐敷】とありますよね。佐敷→人吉ならわかるんです。

福浦は、どこかわかりませんでした。芦北の福浦のようです。と言っても、肥後の人も薩摩の人も、ピンと来ないと思います。

津奈木と芦北の中間の港町で、御所浦島の向かいと言えば、ああなんとなくわかりますね、たぶん。

大丈夫ですよ、私も書きながら、北薩人と南肥後人と同じことを思っていますよ。後で少し書きます。

【田奈久】、これはこんな地名があるのか調べましたが見つかりませんでした。「日奈久」の間違いじゃないでしょうか。

自称探検家松浦武四郎、南肥後にも、行ってないような感じがしますね・・・  またまた疑惑 (-_-;)y-~

 

引用【佐敷より、天草諸島、薩摩の長島・獅子島・上甑諸島をめぐり、】

だから、薩摩には入れんて!薩摩の長島・獅子島・上甑諸島、こんなの絶対に無理。しかも、天草から長島なんて絶対に不可能。

キリシタンのこともあるから、殺されますよ。上陸せずに船で回ったというのは有り得ますが、これも厳しく監視されてました。

阿久根に番所ケ丘といのがありますが、ここに出水兵児が詰めていて、常時航行船を監視してました。今はこんな公園になってるらしいです。

阿久根市役所番所ケ丘公園案内 →番所ケ丘公園ホームページ 私は行ったことがないです。ハトコ(イトコの子)達ならよく知ってそう。 (^_^)

陸の関所もそうなんですが、外にだけ厳しいのではなく、内にも厳しいのが薩摩なんです。

むしろ内の監視、密貿易の監視、物資を薩摩藩外に出させない目的が大きいかもしれません。

密貿易と言うと、鉄砲や黒砂糖、煙草などの禁制品や藩特産品をイメージしがちですが、薩摩は一般の物資も徹底的に管理監視していました。

これは、私の父方の家が百姓だったのでよくわかります。

藩の許可なく、百姓が水俣に唐芋(からいも・サツマイモ)や文旦(ぼんたん・ざぼん)を売りに行っても密貿易です、ほんとに(笑)。

 

引用【牛深・西目・魚貫と、富岡で越年した。】

この地名は全て天草です。天草は天領、幕府直轄領でした。 →wikipedia富岡藩(とみおかはん)

 

☆中座☆

串間子爵位穀玉璧のカラーコピーがあったはずなんですが、行方不明、画像貼れません。

画像は、このページの上の方にあるリンクサイトで見て下さい。

玉璧の表面が赤や青に汚れていますね。何による汚れなのか科学的調査はなされていないようなので想像するしかないです。

水銀、朱、丹(に)、辰砂、青丹、赤丹かなと思うのですが。青、紺色がわからないですね。  →wikipedia丹(に)

緑っぽい青丹のマラカイトグリーンが、あんな紺色になるものか、私にはわかりません。   →wikipediaマラカイトグリーン

 

さて……怪しさ爆発松浦武四郎……私、こういう捏造文章を書く人間は嫌いです。

松浦武四郎はこれが風流で洒落てて江戸受けするんやでと言うのでしょうが、私は嫌いです。薄っぺらいです。

その土地に生きている人や文化を、明らかになめています。

この文章の意味が分かるなんて、てえしたもんだな!と言うだけのために、ゲスイ奴、松浦武四郎が書いた文章を解説するのは、不快です。

 

九州の方ならご存知の通り、那珂郡串間が接する志布志湾を有明湾とも言います。有明町もありました。 →wikipedia志布志湾(しぶしわん) →wikipedia有明町

聯合艦隊の泊地であった志布志湾は、真珠湾攻撃の訓練がなされたことでも有名ですね。

有明湾に有明海・・・「有明」とは、月が夜空にあるのに夜明けが来ることです。

では、嘘つき松浦武四郎の月を見てみましょう・・・ダルッ (-_-;)y-~

引用(画像大きい赤枠の右から)【肥後の都留町で「余今日にして三日米一粒も喰わず。蜀黍(きび)」のみを喰す(※ママ)と手記に書いている。九月の末である。】

九月長月、十月神無月、十一月霜月、十二月師走、何か意味があるんでしょうか?わかりません、考える気がしません。

いや、わかってます。妊娠三か月ですね。

まあ、これは・・・Sファイル林巳奈夫・玉器を読んでいただければ理解できます。(※故宮博物院の画像1~5)

かなり楽ができました、さすが林巳奈夫。松浦武四郎は影なんですよねぇ。黙示の連鎖の果てが松浦武四郎の嘘文章というわけです。

 

あ、「有明の月」でしたね・・・ (^_^;)

こちらが見やすいですよ、「お月様の満ち欠けと呼び名」

ここにある通り、「有明の月」は「十六夜」以降の月のことを言います。26日の月も「有明の月」です。

「有明の月」を並べてみましょう。十六夜(16日)・立待月(17日)・居待月(18日)・寝待月(19日)・更待月(20日)・下弦の月(23日)・有明月(26日)・三十日月(30日)。

※十六夜(いざよい)・立待月(たちまちづき)・居待月(いまちづき)・寝待月(ねまちづき)・更待月(ふけまちづき)・下弦の月(かげんのつき)

はい、こちら、「松阪市の文化情報、松浦武四郎の生涯」が見やすいです。

武四郎はん、16歳、17歳、18歳、19歳、20歳、放浪記ですね(笑)。  (^_^;) なんなんだ、この暗号わあああああああああ!

16歳は家出して江戸で見つかり伊勢国に連れ戻されたらしいので、十六夜は除外しましょう。

立待月(17日)・居待月(18日)・寝待月(19日)・更待月(20日)に共通するのは「待」ですね。

「寺」と有るので、なんとなく想像できますね。「彳(てき・ぎょうにんべん)」は、通常「歩く」という意味に解されています。 →wikipedia彳部(てきぶ)

有明月(26日)、松浦武四郎26歳の時に「西海雑誌」を書くという念の入りようです!

スゴーイ!\(^o^)/疲れた・・・Orz

小野湖山は、前田家の「玉璧」の箱に「獲古玉鉄器三十余品一」(三十日月(30日))と書くほどの友情連携プレー!

スゴーイ!スゴーイ!\(^o^)/疲れた・・・なんなんやこいつらは・・・Orz

 

飫肥以降の旅程が捏造ということは、高鍋藩領那珂郡串間に「玉璧」を盗みに行った可能性がありますね。

松浦武四郎が「玉璧」を盗んだとしたら、様々な景色が一変します。

天保八年(1837年)の10月11月12月に、「今町農佐吉」から盗んだのであろうか?「今町農佐吉」の墓はあるらしいので、実在した人物のようです。

小野湖山1814年文化11年生まれ、梁川星巌弟子入りが1830年天保元年。

松浦武四郎1818年文化15年生まれ、1830年天保元年から1833年天保4年、13歳~16歳の間に梁川星巌の知己を得る。

小野湖山は1831年天保2年から江戸で玉池吟社社友として活動、1839年天保9年に水戸遊学です。

 

まとめます。

天保元年(1830年)・・・小野湖山、彦根で梁川星巌に面会弟子入り。松浦武四郎、津藩私塾生、梁川星巌知己を得る?

天保2年(1831年)・・・小野湖山、江戸、玉池吟社社友。松浦武四郎、津藩私塾生、梁川星巌知己を得る?

天保3年(1832年)・・・小野湖山、江戸?松浦武四郎、津藩私塾生、梁川星巌知己を得る?

天保4年(1833年)・・・小野湖山、江戸?松浦武四郎、家出するも江戸で見つかり伊勢国に戻る。

天保5年(1834年)・・・小野湖山、江戸?松浦武四郎、旅に出る。

天保6年(1835年)・・・小野湖山、江戸?松浦武四郎、旅。

天保7年(1836年)・・・小野湖山、江戸?松浦武四郎、旅。

天保8年(1837年)・・・小野湖山、江戸?松浦武四郎、九州日向薩摩肥後の旅、嘘記述。

天保9年(1838年)・・・小野湖山、水戸遊学。松浦武四郎、肥前で出家、仏門に入る。

天保10年(1839年)・・・『蛮社の獄』。小野湖山、水戸?松浦武四郎、平戸千光寺住職?

wikipedia蛮社の獄(ばんしゃのごく)

小野湖山と松浦武四郎が、梁川星巌の弟子として席を共にした可能性があるのは、天保4年(1833年)だけということになります。

広い期間見たとしても、松浦武四郎が天保3年(1832年)に家出して天保4年(1833年)に江戸で発見されるまでです。

しかも!松浦武四郎が江戸で、玉池吟社に参加していたわけではないのです!

個人的よしみで小野湖山のもとに転がり込んだとは考えにくいです。

天保3年(1832年)から天保4年(1833年)の梁川星巌江戸滞在中、小野湖山と松浦武四郎が会ったというほうが可能性ありですね。

それでもしかし、松浦武四郎が大人しく江戸で勉強していたんでしょうか?疑問が残ります。

 

私がここで問題にしたいのは、松浦武四郎に「玉(ぎょく)」や「玉器(ぎょっき)」の知識があったかどうかです。

盗むにしても価値が分かっていないと、リスクを冒せないと思うんですよねぇ・・・。

「玉(ぎょく)」と言われて、どれが玉かどれが石か分からないといけないんですよ。

しかも、「玉(ぎょく)」、「玉器(ぎょっき)」のうち、「璧(へき)」、「玉璧(ぎょくへき)」を盗まなければならないわけです。

非常に困難な、ミッション・インポッシブルですね! (^_^;)

取りあえずローグ・ネイションな奴等である梁川星巌、小野湖山、松浦武四郎が、水戸藩と繋がってきましたね。

ちょっとですね・・・バカでは盗み出せない代物ですよ、「串間玉璧」。

串間のどこかでご神体とされいた「串間玉璧」を、何も知らないバカが盗み出した可能性は充分ありますよ。

しかし、価値のわからんバカが盗んでどうするという部分が弱いです。

 

「西海雑誌」は「松浦武四郎紀行集中」に収録されているようです。無駄だと思いますが調べておきます。

 

串間の地図、西方の南、高松の東、志布志湾沿いに福島今町駅があり、その東の地名が「有明」となっています。

ここから船に乗ってなら、薩摩領内領海を通過できます。但し、上陸はできないです。

無駄話にしかならないですが、大隅半島を回り根占へ、根占から指宿、指宿から薩摩半島を回って肥後有明海へ。

wikipedia根占(ねじめ)  →wikipedia指宿(いぶすき)

 

犯人は松浦武四郎なんでしょうか?「串間玉璧」を日向国から持ち出したのは、ほんとうに松浦武四郎なんでしょうか?

ことの原点に戻りましょう。

「串間玉璧」について書かれた最初の文章は、驚くべきことに小野湖山による箱書きという事実です。

小野湖山の書付「明治十年丁丑十二月湖山長愿題」、これが正しいのなら、この時まで「串間玉璧」について記した者はないのです、日本列島有史以来絶無。

 

これより以下はSファイル子爵位穀玉璧と同じ内容となります。

 

「松浦武四郎紀行集」(2016年9月2日立命図書館)

 

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