田上王(続日本紀)
ページ名が「tonouesyokunihongi」になっていること、このページを作った時から気付いてました。
偶然間違えてタイプしたにしては面白いと思っていたのでそのままにしてます。 (^_^)
画像は、自宅玄関物入れの上に置いてある野球のホームベースです。
何年前に父が置いたのでしょうか・・・ 以前は乗用車の後部トランクに積んであった物です。
旧姓田上さんの父が置いた戸の上のホームベース。なんか面白い偶然なんで、父が亡くなった今もそのままにしてあります。
「田上」の読み方についてはこちら→田上王(読み不詳) 国史大系続日本紀のコピーが見つかりません。(^_^;)
何が書いてあるか示し、資料が見つかりましたら画像を載せます。
続日本紀に現れる「田上王」。歴史人物事典みたいなものからのコピーだと思います。
クリック、画像大
・天平宝字七年正月無位から従五位下、宝亀元年五月縫殿頭、宝亀六年正月従五位上、宝亀十一年正月正五位下。 ※wikipedia宝亀(ほうき)
これだけです。生年、薨去年、事績等全て不明です。調べになりそうなことが、「縫殿頭(ぬいのかみ)」ぐらいしかありません。
お待たせしました・・・ (^_^;) やっと蓬左文庫本続日本紀(八木書店)のコピーが出てきました。
→Sファイル蓬左文庫本続日本紀 →wikipedia天平宝字(てんぴょうほうじ) →wikipedia宝亀(ほうき)
「天平宝字七年春正月」記事。画像001 画像002 画像003 画像004 画像005 画像006
「宝亀十一年正月」記事。画像011 画像012 画像013 画像014
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「官職要解(かんしょくようかい)」(講談社学術文庫)の「縫殿寮(ぬいどのりょう・ぬいりょう)」解説です。
書かれてある通りで、これが「縫殿寮」についての最古の資料で、当然ながら平安京での「縫殿寮」を指しています。→wikipedia縫殿寮
「和妙抄(わみょうしょう)」とは、「和妙類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」のことで、平安時代のものです。→wikipedia和妙類聚抄
「続日本紀」が書く、「縫殿頭」とは奈良朝廷「縫殿寮」の長官ということなんですが、奈良平城京に「縫殿寮」があったのか?という根本的な問題があります。
細かい問題なんですが、奈良平城京時代に設置されていたのは「縫司(ぬいのつかさ)」なんです。→wikipedia縫司
まとめますと、奈良平城京時代「縫司」(設置年不明)、平安京時代「縫殿寮」(設置年不明)。
ぶ、不気味です・・・(^_^;) →平城京「縫殿寮」探しに行きました!ぷらぷら歩いただけの話ですが、Sファイルスピンオフ平城京の闇?03話
どの書籍からのコピーかわかりません。調べておきます。
近衛家伝来「陽明文庫本宮城図」で、元応元年(1319年)書写、平安宮の図だそうです。
内裏(だいり)の北側に、「縫殿寮」があったのがよくわかります。
こんなのを見付けてしまいました。→立命館校友会2012年陽明文庫講座 うーん受講してみたかった… (^_^;)
見やすいサイトです。→歴代の宮城(皇居)平安京大内裏図 →官制大観大内裏(宮城)
「縫殿寮」跡の現在地がわかるサイト。→みずきりょうの「日本庭園と日本外構」No53 これ、おもしろいですね。
さっそく、グーグルマップで調べてみました。出水通(東西)と浄福寺通(南北)の交差する所で、白銀町・田村備前町・東神明町にまたがる地域ですね。
→wikipedia出水通(でみずどおり) →wikipedia浄福寺通(じょうふくじどおり)
※白銀町(しろがねちょう) ※田村備前町(たむらびぜんちょう) ※東神明町(ひがししんめいちょう)
奈良朝廷も平安朝も何かを隠したいんだなと思ったので、とりあえず筑紫、福岡県を調べたら何かあるだろうと思いつつ調べたら、ありました。
宗像大社に組み込まれている、宗像郡津屋崎町(現福津市)奴山「縫殿神社」を見つけました。
※wikipedia宗像(むなかた)大社※wikipedia津屋崎(つやざき)町※wikipedia新原奴山(ぬやま)古墳群
※縫殿神社(ぬいじんじゃ、ぬいどのじんじゃ、書かれている書物によって読み方が錯綜しています。現地音に従いたいですが、現地音がわかりません)
「宗像神社史(上)」(宗像神社復興期成会編纂)に「縫殿神社」のことが詳しく書かれております。この本、かなりの良書、凄い本ですよ。見ていきましょう!
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右画像のメモ書きにある通り、上巻第六項七十五末社の現状に「縫殿神社」があります。
「津屋崎町大字奴山字大明神嶽」、出版は吉川弘文館1961年6月ですから昭和36年以前の住所ですね。
名称について詳しく書かれてあります。
「(宗像大社)鎌倉時代の年中下行事十二月二十日の條」では「奴山」、「(宗像大社)御縁起」では「百八神の一つ、縫殿明神(ぬいみょうじん)」、
「(宗像大社)正平年中行事」では「七十五社の一つ、縫殿社」、「(宗像大社)南北朝時代の神事目録」では「縫殿明神祭礼」、
「(宗像大社)慶安神事次第」では「奴山縫殿大明神事」、「(宗像大社)延宝末社帳」では「縫殿明神、呉織、穴織」。
ここまでまとめると、「奴山」・「百八神縫殿明神」・「七十五社縫殿社」・「縫殿明神」・「奴山縫殿大明神」・「縫殿明神、呉織、穴織」ということになります。
で、ここからが問題です。→福岡県立図書館デジタルライブラリ「竹田文庫筑前国続風土記」があり、原文が見れます。素晴らしい。\(^_^)/
「竹田文庫筑前国続風土記(巻十七宗像郡下)」によると、
「縫殿大明神、奴山村にあり。宗像神事帳にもあり。里民の言い伝るは、むかし神功皇后新羅を征し玉ふ(たまう)時、船の帆をぬひし神なりといふ。
今その神名についておもふに、これ、兄媛(えひめ・あにひめ)を祀れる社か。いぶかし」
17世紀末~18世紀初頭の奴山の人が、「縫殿大明神は、神功皇后(応神天皇の母)の新羅征伐の時に、軍船の帆を縫った神様です」と証言した。
で、それを聞いた、「筑前国続風土記」の著作者(貝原益軒)が「え!?おかしくないか?(いぶかし)」と言ってるわけです。
日本書紀応神紀では、応神天皇の時代に「兄媛・弟媛・呉織・穴織」が日本に来たとあるので、「縫殿明神の神名、呉織・穴織」を見るに、
応神天皇の母である神功皇后の時代(応神天皇はまだ生まれていない)に「呉織・穴織」が軍船の帆を縫ったというのはおかしい(まだ日本に来てない)から、
著作者(貝原益軒)が考えるに、応神紀の最後に兄媛が宗像神社に与えられたことが記されているので、神名は「呉織・穴織」ではなく「兄媛」なのかも・・・
いぶかし(わしにもわからん!)。
日本書紀→応神天皇時代で兄媛
奴山の人→神功皇后で呉織・穴織
貝原益軒って偉い学者ですね。おかしいな?と思いながらも、現地の伝承を記録しているわけです。素晴らしい。→wikipedia貝原益軒
応神紀、リンクさせて良いのかどうかわかりませんが、ここが見やすいです。→日本神話・神社まとめ
続けて、「筑前国続風土記付録、宗像郡上の奴山村」です。
「縫殿大明神社(中略)、彦火々出見尊・ウガヤフキアエズの尊二神を祀るといふ。田嶋の社伝には、建葉槌命を祀れりとあり。いぶかし」。
「田嶋」というのは地名で辺津宮(へつのみや)のことです。→wikipedia宗像大社 →スピンオフ薩州島津家桑原城
現地奴山の人が言う二つの祭神は彦火々出見尊・ウガヤフキアエズの尊であるが、宗像神社辺津宮(田島)の社伝では建葉槌命となっている、いぶかしい。このような意味です。
「筑前国続風土記」著作者貝原益軒のセンスが光る一文です。
ややこしいので一般的な神名の分類に則って話します。
奴山の人が言う彦火々出見尊・ウガヤフキアエズの尊二神は、薩摩隼人の祖や神武天皇に繋がる系統の神名なんで、辺津宮社伝の建葉槌命とは別ものとなります。
→wikipedia彦火々出見尊 →wikipedia建葉槌命
さらに「筑前国続風土記拾遺十九の奴山村の條」では、縫殿神社は「兄媛・弟媛」を祀ると記されているそうです。
三書編纂順は記述順通りのようです。「筑前国続風土記」、「筑前国続風土記付録」、「筑前国続風土記拾遺」の順です。
私、個人は、奴山の人が伝えるままでいいと思います。「日本書紀」に合わせて伝承を絶つ必要はありません。
そのあたりを、貝原益軒も心得ているから、奴山の人の伝承を記したのでしょう。
現地の伝承をまとめると、
一、神功皇后の時代に軍船の帆を縫った神である→応神天皇よりも前の神功皇后時代に、神社(帆の製造工場)があった
二、祭神は彦火々出見尊・ウガヤフキアエズの尊である→薩摩隼人の祖や神武天皇に繋がる系統の君主クラスか一族が居た可能性がある
なかなか深刻です・・・(^_^;)
明神と言っていますから、奈良平安期に名前「縫殿神社」や地名「奴山」を変えた可能性がありますね。→wikipedia明神
もとは、「縫宮(ぬいみや)」とか「縫山(ぬいやま)」かもしれませんね。
奈良朝「縫司」、平安朝「縫殿寮」に比して、神功皇后ですからずば抜けて古いですね。→wikipedia神功皇后
新撰姓氏録に「衣縫」がありますので、別立てにします。 →Sファイル衣縫(新撰姓氏録)
沖ノ島神宝金銅雛形機織具
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さて・・・どうしたものか・・・「縫殿神社」「縫司」「縫殿寮」の話の大要は書きましたが、縫殿頭田上王についてははっきりしません。
縫殿頭田上王と宗像、田上公祖とある系図によって、とても細い糸で繋がりそうではあるのですが、かなり恐ろしい?仮説に至ります。 (^_^;)
続日本紀の田上王は別書からの登用、東大寺正倉院宝物緑綾袍の年月日は後世書かれたものなど・・・・・・。
論証できるかどうかで言うと、論証できません。続日本紀、別書からの引用が巧みすぎて!
以下様々に史料を示していきますが、正しいかどうかはわかりません、こうかもしれないという可能性に迫るだけのお話になります。
「宗像神社史」、祭神についてです。「西海道風土記逸文」についてのコピー用紙が見つかりません。かなり複雑な経緯があったように思います。
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「古事記」にある宗像神社祭神に関する文書のあとに、「西海道風土記逸文」が述べる宗像神社祭神のことが書かれています(画像の赤枠部分)。
宗像大社の祭神は女性三神となっています。一応書きます。→wikipedia宗像大社
市杵島姫神・辺津宮(福岡県宗像市田島2331)
湍津姫神・中津宮(福岡県宗像市大島1811)
田心姫神・沖津宮(福岡県宗像市大島沖之島)
祭神について「古事記」が述べる形でひとつ、「西海道風土記逸文」が述べる形にふたつあります。この三つの形、伝承に順番がありそうなんですが、よくわかりません。
「西海道風土記逸文」のふたつの形を記します。意訳、漢数字HP作成者。
一、「宗像の太神」が天(あめ)より下って埼門(さきと)山にお暮しになられている時、
青蕤(あをに)の玉を奥宮(おきつみや)の表(しるし)に置き、
八尺蕤(やさかに)の紫玉(むらさきのたま)を中宮(なかつみや)の表(しるし)に置き、
八咫(やた)の鏡を邊宮(へつみや)の表(しるし)に置き、それぞれをご神体とした。」
二、「天神(あまつかみ)に四人の王子がいた。
三人の兄が弟大海命(おとおほあまのみこと)に教示した、お前は三人の兄をご神体とする地に住みなさい。
一人は奥宮(おきつみや)、一人は海中(わたのなか)、一人は深田村の高尾山の邊(ほとり)。後略」
鉄器が出てこない、兄をご神体とする二の伝承が最古に思えるのですが、深田村の高尾山の辺という地名が気になります。
単に、「西海道風土記逸文」著述者が分かりやすく書いただけかもしれませんけれど。
宗像大社のご神体は沖之島だと思っていたので、玉やら鏡やら書いてある文章を読んだとき、変な感じがしました。
現在言われているご神体沖之島が、最古の信仰の姿を示しているのかもしれないですね。
【地名由来について】
宗像の古代の地形については、webサイトむなかた電子博物館に詳しい解説があります。
→サイトむなかた電子博物館にある「宗像地域の古代史と遺跡概説」。サイト内検索しても表示されないので、google検索でpdfファイルを読む方が早いです。
「ムナカタ」は、「ムネ」ではなく「ムナ」になっているところがポイントですね。「ムナ」と「ムネ」では意味が違うのだと思います。
薩摩言葉です。判らないことは薩摩言葉で考えてみると何か見えます。
「むぜ」はかわいいという意味で、もともとは幼い女の子限定です。「むひこ」は息子、「むひめ(むいめ)」は娘。「むか」は迎え、「むこ」は向こう。
薩摩言葉を書くと、それでだいたい意味が分かってしまうのが薩摩言葉の恐ろしいところですねぇ。
現在の福岡県にも、薩摩言葉「むぜ」に近い言葉があるだろうと思い、調べたら、ありました。福岡では「むぞか」と言うそうです。「むぞ」が本体ですね。
古代語の「む」は、新しい、これから、未熟という意味かもしれません。
「な」は、「おきな(翁)」や「おうな(媼)」と同じく人を表すものならば、「むな」は幼子や子供ということでしょうね。
「おきな」「おうな」「むな(むぜ)」、日本人なら誰でも「竹取物語」と気付きますよね。「竹取物語」は九州の物語なんだと思いませんか?
「むなかた」は、「新しい潟」という意味かもしれないですね。政治的には「幼帝の国」という意味にとれそうです。
古事記か日本書紀に「そししのむな国」という記述があったと思います。ありました。「そししのむなそふ国」でした。
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「宮内庁書陵部本影印集成」です。「完」に見える漢字が「宍」というこです。(^_^;)
どーっ見ても「宍」じゃなくて「完」ですがな・・・疲れますね・・・六国史てこんなんばっかりで疲れます。
古事記はもっと異様です・・・一応示しますが、影印本がないので黒板勝美の国史大系です。
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((編集中))
取りあえず「宍」ということで話を進めます。
薩摩言葉の「そ」は「それ」「そのような」で、「しし」っていうのはですね、「小便」という意味です。
「そしし」は薩摩言葉で理解すると、「そんな小便」ということになりますね。
「そししのむな国」、これは、「そんな小便小僧(幼帝)が治める国」ということになります。
天智天皇以前、天武天皇以前に幼帝は居たのでしょうか?そのような記録はありませんが、ひとつの示唆があります。13歳で女王となった台与(壱与)です。
卑弥呼の後継者とされる台与(壱与)ですが、この一つ前に「男王」が即位しています。
卑弥呼から台与(壱与)と思われがちですが、三国志魏志の記すところは、卑弥呼→男王→台与(壱与)です。→wikipedia台与
男王というのは、「そししのむな国(そのような前例のない小便小僧が治める国)」の幼帝だったのかもしれません。
台与(壱与)というのは、13歳か14歳の女性なので初潮は過ぎていたでしょうから、薩摩言葉の「むぜ」には当たらないと思います。
こうして見ると、「竹取物語」とは女王台与(壱与)の物語と言えそうですね。証拠はありません。(^_^;)
もうひとうつ。「そししのむなそふ国」、薩摩言葉と古代語を組み合わせると「そんな小便小僧」となるわけですが、字面を見ると「そふ」も解けそうですね。
幼子を抱いていたら、小便をされるのですから、小便が胸下から腹にかけて流れ洪水となります。
「洪水」の地となると、これは日本各地にありますね。収拾がつかない話になりそうですね・・・(^_^;)
洪水の川を薩摩に限定すると、これは、川内川しかありませんね。薩摩一の暴れ川、川内川。
ニニギって・・・子供の頃に人質に出されたのかも・・・
古事記、日本書紀の問題は、改めて書きます。秦策 「韓、天下之咽喉。魏、天下之胸腹」という言葉があるようです。字源事典を引くと出てました。
日本書紀の字面はこの言葉を意識したものかもしれないですね。
まだまだ工事中