六世田上王(続日本後紀)
クリック、大きい画像
続日本後紀承和十五年夏四月庚寅朔記事の「田上王」、国史大系より。
※wikipedia続日本後紀(しょくにほんこうき) ※wikipedia承和(じょうわ) ※庚寅(こういん・かのえとら) ※朔(ついたち・音はサク)
リクエストがありましたので取り急ぎです。
クリックすると大きい画像
五世春常王・六世田上王・六世春世王の順に名前が書かれています。
普通の日本人なら、おや?と思う書き方ですね。通字と思われる「春」、春世王が兄ではないのか?と思ってしまいますね。
「春」と「春」に挟まれた六世田上王(読み不詳)。こう書かれたら、まあ、普通の日本人は読めますね、「田上王」。
読みは「たうえ」。もしくは「たのうえ」までですね。
さらに、「常」と「世」で挟んでます。「常世(とこよ)」ですね。「常世」とは、あの世のことです。→画像
「常世」の反対語は「現世(うつしよ)」で、この世ですね。
つまり、読みは「たうえ」、既に死んでいますという黙示に読めるんですよね。たぶんそれで正解だと思いますよ。
リクエストありましたので少し書きます。
正直申しまして、「続日本紀の田上王」、「続日本後紀の六世田上王」、「文徳天皇実録の六世田上王」、私は架空の人物だと思っています。
続日本紀より遥か以前の過去に存在した人物の名を入れたにすぎないと思うのですが、これを示す資料をなかなか見つけることができませんでした。
「古代氏族系譜集成」(宝賀寿男編著)に収録されている「石見周布系図」(萩藩諸家系譜所収)、→Sファイル「田上公(読み不詳)」
これが正しいんじゃないかと思っています。これに似たような系図なり伝記に基づいて、続日本後紀は編纂されたのではないか?
続日本後紀は、六世田上王を、天武天皇の六世としております。 →wikipedia天武天皇(てんむてんのう) →wikipedia長皇子(ながのみこ)
➊天武天皇→❷長皇子→❸不明→❹不明→❺五世春常王→❻六世春世王、❻六世田上王
「石見周布系図」は、
❷日觸使主命→❸口子臣→❹水路子臣→❺津古臣→❻阿提古臣(田上公祖) ※觸(触)、ショク、ふれ
問題の「日觸使主命」・・・ こいつがややこしい・・・ (^_^;) カオスです
米餅搗大使主の弟が「日觸使主命」ということになってるようです。 →wikipedia米餅搗大使主
※米餅搗大使主(通常、たがねつきのおおおみと読まれる)※搗、トウ、つく
で、米餅搗大使主と日觸使主命の親父とされているのが、➊武振熊という人物のようなんです。→wikipedia武振熊
以下はスピンオフ向きの話です。
→Sファイルスピンオフ日向について(日向カオス!) 米と日が・・・ここで繋がるという不思議。
士族「田上(田之上・田ノ上)」家であると、日向との親和性は高いです。島津義弘公の家臣であれば、だいたいが日向からの移住です。
秀吉の朝鮮出兵時に薩州島津家が滅亡し、出水郡は豊臣家管理(小西行長)となりました。
朝鮮での島津義弘公の武功で、出水郡が島津宗家に返還されます。島津への恩賞下賜運動の中心となったのは徳川家康でした。
これにより、島津義弘公領地替えで出水郡に、義弘公主従が入りました。この時に移住したのが、日向発祥の士族田上家です。
最も有名な家は出水武家屋敷の武宮家です。元々は田上姓でしたが出水移住を機に、武宮姓を称しました。
出水武家屋敷を見学した時、私は武宮家武家屋敷前で水筒のお茶を飲んで休憩したことがあります。
Sファイル作りをする前で、武宮家の歴史も旧姓も知りませんでした。「田上王」を調べる過程で武宮家の旧姓が田上であることを知り、大変驚きました。
一応、私の血筋は田上(薩州島津家領内、江戸期百姓)なので、感慨深く出水武家屋敷を思い出しました。
私の父方の母方は宮原家(田上家と同じく薩州島津家領内、江戸期百姓)の血筋で、島津義弘公家臣にもこの姓があり、加世田発祥です。
士族宮原家は、島津義弘公が出水郡に入ると、野田地頭を務めました。 →wikipedia仁礼影頼(にれかげより) →wikipedia仁礼頼影(にれよりかげ)
士族宮原家は仁礼姓となり、幕末明治維新では仁礼影範を輩出します。 →wikipedia仁礼影範(にれかげのり)
武振熊に、米餅搗大使主と日觸使主命、よくわからんので、私はモチモチうちわを愛用してます・・・ (^_^;)
もちもち
以下工事中です。